実績をつくる秘訣は、自分が99%成功することしかやらないこと
生田:どのように行動を起こしていかれたのですか?
三嶋氏:僕は何でもかんでもむちゃくちゃやってるように思われますけど(笑)、実際に取りかかるまでには相当考えます。やれること、簡単に判断できることは即実践ですが、迷うときは自分がひらめくまで、事を起こしません。自分が99%成功することしかやってないんですよ。
生田:ひらめいて、これはいけると思ったら行動に移す。例えばどんなことがあったのですか?
三嶋氏:例えば、店を作るときでもそうですね。30歳代のころに1億円以上借金して本店を建て替え、京都ホテルオークラ店、京都文化博物館店、四条烏丸店と出店して借金が3億超えました。
もう、これ以上新規展開はしなくてもいい、と思っていたときに電話がありましてね。 三年坂の方に当時「阪口」という料亭があったのですが、チームを組んでこれを再生する話が出ていて、そこへの出店を持ちかけられました。
3000坪もあるすごい料亭です。そこによーじやさんやイノダコーヒさんといった有名店が入ることになっていました。言われるがまま、店を見に行ったら雨上がりの霧がかかってすごく幽玄な庭でね。
「あんたどこに入る?庭がよく見えるところがエエやろ」と言われました。僕は大正時代に建てられた蔵に目を引かれて、思わず「この蔵がいいですワ」って言ってしまった(笑)。 こんな感じですから、実は自ら必死で展開しようとした店は1軒もないんですよ。
▲すべては、この本店・先斗町店からはじまった
生田:暖簾分けも含めると9店舗も展開されていますが、それはおどろきです。
三嶋氏:もちろん、そばを広めたいという気持ちは強く持っていましたし、アピールもしました。例えば京都ホテルオークラ店は、当初出店料が3億円ということで、京都中の名だたるそば屋がみんな断り、最後にうちに話が持ち込まれました。
そこで僕は「3億円は無理だけど、1億円以内にすべて収まるなら考えます」と答えたんですよ。
結果、それでOKとなり、僕も断る理由がなくなったので出店することになりました。これも初期投資と家賃と、予想年間売上を計算して、これなら可能だという結論が出たから出店したわけで、無理をして出店したことは一切ありません。
生田:それは経理を学ばれたことや数字に強いということが、有利に作用しているのかもしれませんね。
三嶋氏:ただ周辺からは、京都ホテルオークラ店は、潰れるのは時間の問題だ、2年も続かないだろうという声がありました。結果的にホテルに出店したことによって知名度が上がり、お客様も増えました。
しかし実は、倒産の危険にさらされたことも2回ありました。一番厳しかったのはこの本店です。
東京から帰ってきたのが昭和55年、しばらくはもとの店舗に手打ち場を作ったり、壁を塗り替えたりとリニューアルを加え、昭和63年に新築工事をしました。それが開店した矢先、昭和天皇の御不例があり、日本中が自粛ムードに包まれてしまいました。今の若い人はご存じないかもしれませんが、街全体がシーンとするほどの自粛ムードです。
宴会も自粛、先斗町の鴨川踊りも自粛で、1日2回転はしていた2階の座敷も使う人がいなくなって…店舗規模は従来の4倍になっていたにもかかわらず売上が予想の半分しか上がらない、本当に厳しい時期を過ごしました。昭和天皇が崩御されたのが翌年1月。借入金の返済スタートが3月。もし、あの自粛ムードがあと1カ月、春まで続いていたら、うちは倒産していました。
生田:もう一つの危機はいつ頃だったのでしょうか。
三嶋氏:京都ホテルオークラの店舗がオープンしたのは平成6年でしたが、その翌年の1月、阪神淡路大震災が発生して、やはり売上が落ち込みました。
その後、逆に復興景気も訪れましたが、この2つはしんどかったですね。あとは忙しすぎて気がついていないと言うべきかな。ずっと走り続けてきて、前しか見てませんから。
暖簾を上げた以上、死ぬまで降ろすことはできない
生田:店主として、ずっと走り続けてきたとのことですが、この間、料理人として何を大切にしてこられたのでしょうか。
三嶋氏:料理人としてはやはり「どういう観点で料理を作るか」ということです。そば屋は割烹や料亭と違ってメニューがシンプルですが、できあがりは作り手によって千差万別。「おいしく作ろう」という意識を働かせている人と、ただレシピ通りに作っている人とではできあがりがまったく違います。
僕自身、同じものを出すにしても非常に工夫します。ひとつの料理に、今までの経験や知識をすべてつぎ込みます。天ぷらそばひとつ作るにしても、そばのゆで方や固さ、だしの量、天ぷらの揚げ方など、言い出せばきりがありません。そばのゆで時間が2分30秒としても、レシピには書かれていない、そばを洗う水の温度によっても変わるものです。
そういう気遣いが料理を左右する──。そこは昔からやっている店のプロとしてのプライドです。暖簾を上げた以上、死ぬまで降ろすことはできない。ときどき、趣味が高じて出店したというそば屋もありますが、プロのプライドはそんなに生やさしいものではなく、そば屋はそば打ちの技術力だけでできるというものでもありません。