食メンTOP「三嶋吉晴氏」 (3)

京都五花街のひとつ、先斗町に位置する有喜屋(うきや)は、昭和4年開業のお店。店主の三嶋 吉晴氏は関西の手打ちそばの先駆者として知られ、平成14年に京都府「現代の名工」、平成23年には厚生労働大臣認定・卓越した技能者表彰「現代の名工」を受章。さらに平成25年春には、手打ちそばの第一人者として関西に手打ちそばの文化を広めた功績が認められ、「黄綬褒章」を贈られています。

今回は、うどん屋の3代目として生まれた三嶋氏がなぜそば打ち名人になったのか、これまでのあゆみと料理人としての心構えについて、クックビズ取締役の生田亮人がとことん探ります。

何事も「かっこ良さ」がキーワード

生田:本日はよろしくお願いします。有喜屋さんは昭和4年にここ、先斗町で創業されて84年になるお店ですが、初めはそば屋さんではなく、うどん屋さんだったと伺いました。

三嶋氏:はい。私の祖父が創業したのですが、15人ほどしか入れない小さな店舗で、先斗町のお茶屋さんなどに出前をするような古いスタイルの関西のうどん屋でした。

僕も小学校高学年ぐらいからずっと出前持ちなど、手伝いばかりやらされていたのですが、それが嫌でね、その反動で小学校の卒業作文には「中学を卒業したら東京に行って、おそば屋さんで修業してやる」って書いてるんですよ。

三嶋店主1

生田:先代から教わることもできたのに、なぜ東京に修業に行こうと思ったのか、素朴な疑問です。

三嶋氏:叔父が東京でサラリーマンをしていたので、そのつてで京都から出たいという気持ちもありました。ここにいると大晦日だって営業しますから、みんなが遊びに行っているときでも僕は連れて行ってもらえなかったり、手伝いはせんとあかんわで。
高校ぐらいになってくると、うどん屋の格好悪さやしんどさ、自分の家の商売の嫌な部分ばかりが見えるわけです。
高校は商業高校でしたが、遊んでばっかりで簿記や経理の検定試験にも受かってなかったので。これでは人生後ほど格好悪いことになると考えて、経理専門学校に行き、その間に高校3年分の検定試験に通りました。

こう見えて結構、数字には強かったんですよ。ところが公認会計士と税理士を受けようとするところまでは行ったんですが、またサボってしまいまして(笑)。 これは何とかしなければと思い立ったのが、修業に出ることでした。

生田:それで東京に行くことになったわけですか。

三嶋氏:ただ修業に行こうと思っただけじゃなくて、今までの自分の考え方の中で、格好悪いことはしたくないという思いがありました。技術力が身に付いていないので、一生この商売をするなら、根本的に何でもできるようにならなければと考えて、東京で一から教えてもらったわけです。

生田:そこでメンターとなる師匠に出会われたわけですね。

有喜屋そば

三嶋氏:はい、東京・上野「薮そば」の手打ちそば名人の鵜飼良平さんのもとで修業しました。師匠は江戸っ子ですのでね。そこで東京のそば屋の粋さとか、独特の文化を知りました。
格好いいんですよ、東京のそば屋というのは。寿司屋やうなぎ屋、普通の日本料理屋と同等のプライドを持っていて店格も高い。 京都のうどん屋が格好良くなるためには、あれをとりいれなければならないと実感しましたね。

生田:師匠からはどんなことを学ばれたのでしょうか。

三嶋氏:一番はやはり技術力ですね。それほど大きな店ではなかったんですが、僕が入社したときは先輩が6人ぐらいいて、それが独立したり、辞めたりなさって数カ月の間に3人になってしまった。ということで、覚えたかったら、いくらでも覚えられる環境になったんですよ。

生田:それをチャンスと捉えられたわけですね。

三嶋氏:はい。当初から手打ちは絶対に学ぶつもりだったので、僕もやらせてほしいと頼みました。東京は機械打ちでも、そば生地は木鉢でこねるんです。
だからそこからマスターして、さらに手打ちを教わりました。もちろん、それだけ勉強していたわけではなく、掃除から仕込み、洗い物まで全部やらないといけませんよ。
その上に休憩時間も休憩せずに、先輩が打ってはるのを見て勝手に打ち出すとか、それぐらいしないと技術力は身に付きませんでしたね。遊びなんかは何にもしませんでした。
休みの日もお蕎麦屋さんを食べ歩きに行ったり、あとはコインランドリーで洗濯したり、銭湯に行くぐらい(笑)。それぐらいどんどんやっていくっていうのが、“3年を10年にする秘訣”です。

3年を10年にする秘訣とは

生田:3年を10年分にするとは、どういうことですか?

三嶋氏:東京に行ったのは二十歳の時。修業は最初から3年と決めていました。僕のような育ち方、まあ周りは先斗町で店を経営しているようなエェとこの坊ちゃんが多いわけで、どうしても友達に対するライバル意識が強くなるんですよ。
だから、友達が大学に行っている間に先にスタートして、彼らが卒業するころには一人前の店主になってやろう、と思ったんですよ。まずは格好良くないとね! 普通なら3年でなんて上達しません。だから「3年で10年分やらなあかんな」という意気込みで東京に行ったんです。

三嶋店主2

生田:京都にもそば屋はたくさんあると思いますが、やはり東京とは違うのでしょうか。

三嶋氏:京都にも500年続く尾張屋さんや200年続く河道屋さんのようなそばの名店、老舗があります。一方、江戸のそばは江戸末期に完成された技術です。京都ではそれ以前から御所にそばを納めていましたが、それは小麦粉がたくさん入ったうどんに近いそばだったんです。
江戸は武士社会で優雅さはない。ところが、京都は天皇がおられたので、日本中の食材が集まる文化の中心でした。食材も生魚以外はすべて入ってきます。米や麦といった五穀も京都に集まりますが、江戸は雑穀しか集まりません。つまり、雑穀の文化がそばの文化だったんです。だから京都のそばと江戸のそばは全然違いました。
今はそば粉の多いそばに高級イメージがありますが、当時は小麦の方が格段に高価で、米と同じような扱いでした。そばは蒔けば60〜75日で生育する、飢饉の食べもの、雑草と同じです。
これを石臼でひいて粉を団子にして食べたのが、そもそものそばの食べ方でした。飢饉の時の非常食なので、京都の人にはなじみが薄かった。もちろん、いまは違いますよ。この30年で変わりました。

そば1

生田:それは三嶋さんが京都へ戻られてからの努力の成果ともいえますね。

三嶋氏:もちろん、帰ってきた当初はそんなにうまくいきません。現実はもっと厳しい。そばは売れへんし、店の雰囲気は格好悪いし、まだしばらくは出前もしていました。
出前をやめるには10年ぐらいかかりましたね。それから次第にそばが売れるようになっていきました。 ずっと前を見て走り続けてきたことに尽きますね。

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