「包丁一本がんばったンねん」。そう決意した24歳のコピーライター志望の若者は、およそ40年を経た今、京都に名店を構えている。2009年より7年連続でミシュラン二つ星を獲得し、生前の手塚治虫氏や倉本聰氏など名だたる文化人が訪れる『梁山泊』は、京都大学の近く、百万遍に佇む一軒家。

四季の花が楽しめる庭や調度品まで心遣いが行き届いた空間で、店主の橋本憲一氏自ら集めてきた魚や酒、野菜など、力のある素材を地下水を使って仕上げる京料理を楽しめる。

10冊近い著書をもち、2014年には京都大学経営管理大学院MBA取得と、料理人の枠にとどまらない活動を続ける橋本氏。そんな橋本氏から、これまでに培ってこられた人生哲学や店づくり・スタッフ育成についての考えなどを語っていただいた。

橋本憲一

芝居三昧の毎日から料理の道へ

とてもステキな空間ですね。橋本さんが料理人を志されたきっかけを教えてください。

橋本氏:ここは私の生家なんです。22年前、これから外国人客が増えるだろうと、土と木と紙とで作る、純和風の家に建て替えたんです。素人だった嫁さんが10年勉強して設計して、僕が配線段取りなんかを考えたり、行程表を作ったり、業者に相見積もりをとって発注してつくりました。

料理人になったきっかけ、でしたね。僕は鹿児島大学で食品工学を学んでいたんですが、いわゆるアングラ演劇にハマって役者や演出をしていたんです。芝居をやりながら、土本典昭さんの水俣病の上映運動なんかをやっていた。そこで、動員数をものすごく成功させたから、当時鹿児島に来ていた東京の黒テント(※1)からスタッフとしてスカウトされたんです。その気は無かったんだけど、コピーライターにならなりたいと言ったら、「ツテはいろいろあるよ」と調子のいいことを言われて、だまされた(笑)。それで、上京しました。

ところが、母親が病気になった。僕が大学に籍を置きながら、東京に行ったりしたものだから、心労もあったんでしょうね。僕も責任を感じていたし、京都に帰ることにしたんです。

「さて、何をしようか」と思ったときに、責任は自分で持たないといけないけれど、自分の好きなように生きていきたいなぁと考えて、「商売がいいんじゃないか」と思いついて。じゃあ、どんな商売にするか。

もともと食べることが大好きだったし、高校時代から母親に祇園の割烹に連れてもらって「板場ってカッコええな」と憧れをもっていた。ならば、ここで飲食店をしようと決めました。それに、料理をすれば、一番旨いもんが集まって来ると思ってね。でもまさか、こんなに長く続けると思ってなかったですね。料理なんて、なにもできなかったからね。

※1…黒いテントで旅公演を行う劇団であったためその名が付いた劇団。60年代後半~70年代前半のアングラ演劇ブームを代表する存在

数年の間に、京都から鹿児島、そして東京と移られてまた京都と、激動だったんですね。

橋本氏:そうなんです。大学紛争もあったし、その影響もあって、店の名前も『水滸伝』にちなんで、常識にとらわれない・最後まで現役で生きることができる場所にしたいという思いを込めて『梁山泊』とつけたんですよ。今思うと派手な名前ですよね。反骨の時代でした。

それで、玄関と応接間は芝居時代の経験から自分で改造した。庭は昔からのつきあいの庭師をくどいて手伝わせた。「うちの親に世話になったよな?」って言ってね(笑)。それで、1ヶ月後には店をオープンしていましたね。1973年、24歳のときでした。

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