(訂)食メンTOP「橘-秀希氏」

今回お話を伺ったのは、名古屋を中心に“陽気なイタリアン食堂”「ヴォーノ・イタリア」を展開する愛知県名古屋市を本店とする、株式会社ル・クールの代表取締役 橘 秀希氏。2009年の初出店以降、わずか4年足らずの間に全国約50店舗という急成長を遂げた同社、「食のメンター」第12回では、その秘策をクックビズ藪ノが紐解きます。

■飲食店で一国一城。ドラマをキッカケに、頑固にそして愚直に飲食の道へ進みはじめた。

interview12-3cook+biz(以下、C):実は、名古屋の企業様をこの「食のメンター」でご紹介させて頂くのは今回が初めてなんですよ!弊社のような採用系のサイトや雑誌のインタビューなどはよく受けられるのですか?

橘氏(以下:T):名古屋初なんですね!光栄です(笑)普段のインタビューは、メディア系のインタビューが圧倒的に多いですね。業界紙とか。
お店を作るにあたってのスキームとか、この原価率でどう運営しているのか?みたいな切り口が多いです。

C:なるほど。ではいつもとは少し質問の切り口が違うかもしれませんね。
このサイトは自分も独立したい、キャリアアップしたいという方に数多くご覧頂いています。その観点からみると、最も気になったのが、橘様のキャリア。元々はホテルシェフのご経験がおありだそうですね。いわば現在の業態、ファミリーチェーン店の業態とは、真逆の位置にあるといっても良いかもしれない。スゴく大きな「ふれ幅」、みたいなものを感じたのですが、現在の業態にはどのように辿り着いたのですか?

T:一流のホテルやレストランで働いていると、やりがいを感じると同時に、とても限られた方々のためだけに食事を作っている、その現実も強く感じていたのです。小さいお子様からご年配の方までが、食事というシーンを堅苦しくなく、楽しく過ごせる空間を作りたい、もっと幅広い方に自分の料理を召し上がってもらいたい。週末、家族で気軽に来れるように、ちょっとしたお祝いなどにも使ってもらえるように。チェーン展開した理由も、より多くの人に食べてもらいたいそんなシンプルな願いからでした。

C:「たくさんの人に食べて欲しい」という思いは料理人になったキッカケでもあるのですか?

T:実は私自身、最初は料理人を目指していたわけではなかったのです(笑)。高校3年生までは普通に大学の進学を考えていました。むしろ高校3年生の時は大学でいかに遊ぶか、それくらいしか考えてなかったですから(笑)そんな私が料理人を一気に目指すようになったキッカケはひとつのドラマ。外国でライスカレー屋を出店する男性のサクセスストーリーでした。ドラマでは主人公が店を出すまでの苦労や、人とのふれあいが描かれていたのですが、それが高校生の私にはとてもかっこよく見えて。「男で生まれたなら飲食店で一国一城や!」と、進学から急遽飲食の道へ進路を変更。突然の出来事に、親も教師も「何考えてるんだ!!」ってボロカスでした(笑)だけど当時の私は頑として譲らなかった。その後はそのまま頑固を貫いて、大阪阿倍野にある料理学校へ進学したのです。

C:なぜ大阪だったのですか?

T:シンプルに大阪が好きだったんですよ(笑)元々、ミナミの賑やかな雰囲気が好きでもあったんですが、実は高校時代、大阪からの転校生で可愛い子がいて。一緒に大阪へデートで遊びにいったりしていたんです。そのころから大阪いいなあ、なんて(笑)。若い頃の動機ってシンプルなもので、いいと思うんですよね。

■飲食業界で技術を自分のものにしたければ体当たり。外務省にだって体当たりした。

C:学生時代は結構、勉強漬けだったんですか?

T:いいえ、まだまだ学生時代はそんなにがむしゃら、という訳でもなかったですね。人並みには勉強していましたが、必死という感じでもない。やはり就職してからでしょうか、徐々に自分なりに欲が出てきたのは。大阪の学校を卒業後、名古屋に戻って「ウエスティン名古屋キャッスル」というホテルで4年勤めていたのですがそのころから、「海外でも飲食の仕事を経験してみたいな」と思うようになりました。でも当時はネットもケータイも無い時代。海外の仕事なんて全然決まるどころか、見つかりすらしませんでした。でも英会話だけは、一応やっていたり。自分なりに準備だけはしていたのです。

C:勉強する時間はどうやって捻出していたのですか?ホテルのお仕事って、お休みはとれたのでしょうか?

T:意外とホテルは休みがちゃんとあるんですよ、早番や遅番で自分の時間も取り易かったり。だから英会話も勉強出来た。そのかわりホテルでは真面目に働いていてもなかなか鶏肉や魚のさばき方は教えてもらえない。だから自分でお肉屋さんに行っては、鶏肉をひたすらさばかせてもらったり、魚屋さんにいっては、魚をひたすら下ろさせてもらったり。とにかく自分の出来る事には体当たりして、愚直に力を付けていました。

C:そこから何をキッカケに外国での飲食の仕事に繋がったのですか?

T:今思うと笑い話なんですが「一番外国とつながりが深いのってどこだろう?」って考えた時、浮かんだのが外務省だったのです(笑)。それで霞ヶ関にアポ無しで行って、働かせてくれ!という感じで直訴して。ここもまた体当たりですね(笑)。当然、門前払いだったのですが、奇しくもそこで国際交流サービス協会っていう、公邸料理人を募集している機関をご紹介頂いて、運良くカナダの日本大使館に空きがでていて、2年間カナダの大使館で働く事が出来たのです。

C:そんなことってあるんですね!

T:今思えば、本当に運が良かったというほかないのですが、行動してみるとこういうことが起きるんですよね。その後、任期を終えて一時帰国。名古屋ヒルトンで1年くらい働いてたのですが、今度はイタリア料理ブームが到来。それまでフレンチ一本だったのですが、そのブームをキッカケに「この先はイタリアンのほうが面白いのでは?」と思うようになって。そう思ったが吉日、即単身ローマへ渡りました。

C:またまた体当たりですね!イタリアにはお知り合いがいたのですか?

T:もちろん、いません(笑)ホテル時代にたまたま一度だけ面識のあったイタリア人シェフがいて、彼の名刺と写真を持っていたので、それだけを頼りにイタリアへ渡りました。もちろん向こうは覚えてなかったですが(笑)でも結果的に、そのシェフのお店でしばらく働かせてもらって、イタリアを北から南へ食べ歩きもしました。ギャランティはなく、寝泊まりとまかないだけだったので、それはもう貧乏。服も買えないので普段着もコック服のままでしたけど。でもおかげでいろいろ勉強させてもらって、結局約1年程滞在したでしょうか。帰国後は大小さまざまなレストランの立ち上げとかに携わらせていただきました。イタリア料理に限らずいろいろ出来た事が何よりの財産ですね。