
前回の記事では味噌の歴史や、日本全国の味噌の概要を紹介しました。
大まかにいって、東日本の味噌は米味噌が中心。熟成期間は半年以上で塩分の強いものが一般的です。西日本では麦味噌や白味噌も多く見られます。塩分濃度も低く、熟成期間は数週間から数カ月と短めです。
そこで筆者は気になりました。沖縄に味噌はあるのか。調べてみると、ありました。味噌のほかにも、一年を通して温暖湿潤な沖縄の気候は発酵食品づくりには適していることが判明。そこで現地に行って、沖縄の発酵食品について調べてみました。
目次
<沖縄の発酵食・その1>味噌
■水が豊かな首里の土地が醸造業と琉球王朝の繁栄を築いた
玉那覇味噌醤油の「味噌」の特徴は、大豆、塩、麹だけのシンプルな材料だけでできていること。化学調味料や保存料などは使っていません。
一年を通して温暖な沖縄の気候にまかせて、じっくりと熟成させる昔ながらの製法で、質の高い安心の味噌を作っています。
琉球王朝の首都・首里には、かつて多くの味噌屋がありました。ところが、現在首里にある味噌屋は玉那覇味噌醤油の1軒のみ。
なぜ、首里には多くの味噌醤油屋があったのでしょうか。その理由は、首里という場所の特殊性にあります。
沖縄は地形的に大きな河川がなく昔から水を得ることに苦労してきました。今でも屋根の上に貯水タンクを積んでいる家が多い地域です。

ゆいレール儀保駅を降りて首里城へと続く坂道を上っていくと、ツタが絡まった時代を感じる塀が現れます。そこは琉球王国の尚泰王時代、江戸時代末期の頃に創業された「玉那覇味噌醤油(たまなはみそしょうゆ)」の外壁です。
ところが、古都・首里は地下水が湧き出る水の豊富な街。その豊かな水源を活かして泡盛の醸造所や、味噌、豆腐、紙漉き業などで繁栄しました。
王族士族だけでなく人が集まる首里という場所は、商業的にも大きなメリットがありました。琉球王国は、豊かな水源と人々の生業に支えられて発展していったのです。
■機械化で廃業の危機を乗り越える
ところが、沖縄戦で首里の街は一変。爆撃を受けて玉那覇味噌醤油の工場も倒壊しました。建物は倒壊したものの、石垣や明治の頃から補修を繰り返して使ってきた木桶は無事でした。
戦後、再建を進めてきた首里の街でしたが、本土に復帰し本土から大手メーカーが参入したことで再び危機に陥ります。沖縄の味噌醤油業者が次々と廃業していく中で、玉那覇味噌醤油が踏み切ったのが機械化でした。
生産量がわずかな手作業から、ボイラーや豆を煮るための蒸煮機などを導入することで、生産量を増やすことに成功。
現在、玉那覇味噌醤油で製造しているのは味噌だけです。従業員7人という小規模の工場で、醸造から販売までを一貫して行います。すべての工程に自社が責任を持つことで「安心で安全な食」を提供したいという思いがあってのことなのです。
同社の味噌は県内のスーパーや産直のほか、保育園の給食にも使われています。
ちなみに筆者のおすすめは王朝みそ。熟成された味わいが、しっかりと作られているのを感じます。長期熟成しているので色は赤っぽくなっていますが、クセのない米味噌。東日本の味噌に近い味わいです。
インターネット販売も行っているので、気になる方はそちらをチェックしてください。
<沖縄の発酵食・その2>豆腐よう
味噌に続いて紹介するのは「豆腐よう」です。
豆腐ようとは、豆腐を泡盛と紅麹に漬けて長期間発酵させてつくった発酵食品のこと。
長期間熟成させることで、チーズやウニに似たねっとりした食感になります。栄養価も高く、タンパク質が多い健康食品としても人気が高まっている食べ物です。
豆腐ようは、中国をはじめとするアジア国々との貿易が盛んだった琉球王朝時代に明から伝わった「腐乳」という食べ物が元になっていると考えられています。
腐乳は、豆腐を麹につけて塩水の中で発酵させた食べ物。腐乳のつけ汁は塩水ですが、豆腐ようは泡盛が使われています。
豆腐ようは、琉球オリジナルの発酵食品なのです。
当時、豆腐は庶民にとって贅沢品。紅麹や泡盛も手の届かないものでした。
先に琉球王朝の首都・首里はかつて泡盛などの醸造や豆腐で栄えた街であったことを書きましたが、庶民には手の届かないものでつくられた豆腐ようが誕生した背景には、琉球王朝の存在があったといえるでしょう。
■気温18℃の鍾乳洞の中で1年以上じっくり熟成
今回は豆腐ようを熟成している金武鍾乳洞(きんしょうにゅうどう)に行ってきました。
鍾乳洞に行ったのは真夏の7月でしたが、中に入るとひんやり。この中は一年を通じて18℃に保たれているそうです。
豆腐ようのほか泡盛の熟成も行っているここには、たくさんのボトルや樽が並んでいました。
結婚や子どもの誕生などのライフイベントをきっかけに、泡盛のボトルキープを依頼する県外や海外のお客さんが後を絶たないのだとか。
長期熟成させることで、泡盛は角がとれてまろやかな味わいになっていきます。
金武鍾乳洞にある豆腐ように使われているのも泡盛の古酒です。古酒に漬かりながら1年2ヶ月間、じっくり熟成してできあがるのです。
<沖縄の発酵食その3>泡盛
沖縄料理に欠かせない「泡盛(あわもり)」。古都・首里では泡盛の醸造が行われ、豆腐と泡盛がコラボした「豆腐よう」も誕生しました。
泡盛はどのようにして沖縄の食文化に根付いたのでしょうか。今回の旅では今帰仁村にある「今帰仁酒造(なきじんしゅぞう)」を訪ねました。
泡盛は14世紀頃にシャム国(現在のタイ)から伝わったといわれています。
泡盛は王家御用達の酒として厳重に管理され、薩摩、徳川幕府、中国などへの献上品として使われてきたという歴史があります。
泡盛は米を原料として、アルコールやその他の原料を添加しない天然の蒸留酒。今帰仁酒造では2日間かけて蒸した米を使います。
米と水、麹菌を混ぜて発酵させるとアルコールができます。それをしぼったものが日本酒。日本酒を蒸留したものが焼酎になると考えれば分かりやすいでしょう。
■泡盛を熟成させるとどう変わるのか
蒸留酒という点で、焼酎と泡盛は同じカテゴリーに入ります。
泡盛の大きな特徴は黒麹菌を使っていることと、蒸留後に熟成させることです。なぜ熟成をさせるのかとたずねてみたところ、長期熟成をかけることで濃厚で芳醇な香りが生まれるから、と説明してくれました。
容器にいれて寝かせると、時間の経過とともに泡盛が空気を吸いながら酒の香味成分を変化させます。アルコールの刺激的な香りを消して、徐々によい香りになっていきます。
また、時間が経つことでアルコールと水が組み合わさって、味もまろやかになるということでした。よい原酒をよい容器にいれて貯蔵すると、年数が経つほどに熟成効果が現れるそうです。
泡盛が沖縄に根付いたのは、温暖な気候のおかげ。米・麹・水を混ぜた発酵液を飲む日本酒は水の味がそのまま味につながりますし、麹菌以外の菌が繁殖しないよう仕込みは冬に行うのが一般的です。
一方、蒸留酒である泡盛は仕込み時期を気にする必要はありません。一年を通じて気温差が少ない沖縄は、常に一定品質の泡盛を作るには適した環境だといえるのです。
まとめ
沖縄の食文化には、味噌や豆腐よう、泡盛など琉球王朝とつながりのあるものも多く見られることが分かりました。
それらに共通するのは“発酵の力を借りた食べ物”であるということ。亜熱帯地域に属する沖縄は、一年を通して温暖。急激な気温の変化が少ないため、一年中発酵食品をつくることができます。
熟成のメカニズムは食品によって異なり、一概になんでも熟成させた方がおいしいとは言えませんが、熟成は食品を保存するために生まれた知恵であることに変わりはありません。
もっとおいしく、もっと長く保存しようとして生まれた熟成の技術が、沖縄の食文化をより豊かにしているのです。
<取材協力>
企業名 | 玉那覇味噌醤油 |
企業名 | 有限会社インターリンク沖縄 |
企業名 | 有限会社今帰仁酒造 |