
目次
何かに導かれるように訪れたニューヨーク
まずは生い立ちや飲食の仕事に就かれたきっかけから教えてください。
ズウィナー氏:私は1939年にドイツ・ブレーメンで生まれました。家族がレストランを経営していましたが、第二次世界対戦で経営していたレストランが戦火で焼かれてしまいました。
母は私に料理人になってほしかったようですが、私は人が好きで、人と話すことが好きなので、ウェイターになりたいと思っていました。
高校卒業後にドイツでウェイターになるためのホテル学校へ進学しました。そこで3年間、サービスや会計に関する基礎、ホテルのテーブルセッティングなどホテルサービスに必要な知識、お店の開店業務に関してなどを勉強しました。
卒業後はドイツのホテルやレストランでサービスの経験を積みました。
その後はパークホテルに入って、船に乗ってレストランサービスする仕事をしました。
20歳の頃に叔父がニューヨークでエレベーターの会社を営んでおり、その仕事を手伝わないかと誘われましたので、ニューヨークへやってきました。1959年のことです。ただ、その仕事は汚かったし辛かったので、全然好きになれず…。結局1年ほどで辞めてしまい、ニューヨークのヒルトンホテルで働き始めました。
ヒルトンホテルではどのようなお仕事をしていたのでしょうか?
ズウィナー氏:仕事は結婚式やパーティ会場のサービス係でした。結婚式場は夏は仕事がなかったし、お客様からもらったチップはホテルに管理されており、稼ぎがあまり良くありませんでした。当時、エレベーター会社に勤めてていた頃に妻と出会い、結婚しました。結婚したばかりということもあり、もっと稼ぐことができてやりがいのある仕事はないか、と考えていました。
そんな時、ヒルトンホテルで出会ったドイツ人の友人のクートに「いいレストランがあるから働かないか?」と誘われたのが、NYの老舗名門ステーキハウス「ピーター・ルーガー」のウェイターの仕事です。1963年のことでした。
当時のお店はどんな印象でしたか?
ズウィナー氏:当時の「ピーター・ルーガー」はビアホールのような気さくな雰囲気で、ホテルのクラシックな雰囲気とは違っていました。テーブルクロスもありませんでしたしね。メニューも牛肉ステーキ・ランプステーキの他に、前菜のスライストマト・スライスオニオンぐらい。数種類くらいのシンプルなメニュー展開のお店でした。
当時家には妻も子供もいてお金が必要だったので、毎日勤勉に働きました。私はお客様からもウケがよく、いいウェイターだと評価してもらいました。店からは信頼され「マネージャーにならないか」と何度も誘われました。
しかしマネージャーになってしまうと現場から離れないといけません。つまりチップがもらえなくなり、お給料が下がってしまいます(笑)。ですから「マネージャーにはなりたくない」とずっと断り続けていました。当時はチップを入れるとマネージャーのお給料の3~4倍は稼ぐことができたんです!
そして1967年、4年かけて「ピーター・ルーガー」のヘッドウェイターつまり、ウェイター長となりました。
それだけチップを貰うということは、お客様から愛されていたということですね。そんなウェイターになるべく心構えや気を付けていたことはありますか?
ズウィナー氏:遅刻をしないなど、基本的なことを真面目にやるだけです。常連のお客様が好きなドリンクやメニューを憶えておいたり…そういった当たり前のことです。料理やドリンクを詳しく説明できたり、サービスとしてのホスピタリティですね。いきなりビジネスの話はせず間接的な話題をしていくことは大切にしていました。
それから身だしなみはいつも美しくする。身だしなみは本当に大切だと考えていて、ランチタイムとディナータイムで新しいシャツに着替えることは私の日課でした。
そうそう、当時お店ではクレジットカードが使えなかったのですが、お客様が現金の持ち合わせがなかったことがあって…私が代わりにお金を立替てあげる、なんてこともありましたね。
異国の地で大変なことは無かったのでしょうか?
ズウィナー氏:私の人生は本当にラッキーなのです。叔父に誘ってもらってニューヨークに来たことも幸運でしたし、ヒルトンで出会ったドイツの友人が「ピーター・ルーガー」を紹介してくれて、お金もしっかり稼げました。
そして伴侶と出会い、息子たちに恵まれ、幸せな家庭がありました。また、お金があったから息子たちには最高レベルの教育を与えることが出来たので、彼らは非常にいい仕事を得ました。長男のSteveは銀行員になり、次男のPeterはパイロット免許を取得した後、銀行員になりました。
私の人生は全てが良いことだったと思えますし、異国の地で大変だったとか、辛かったという思い出はありません。