
異国文化が織りなす独特の情緒にあふれた、港町・神戸。都会の華やぎに満ちた三宮や元町駅周辺から山手へ少し進むと、真珠のまち神戸にちなみパールストリートと呼ばれる閑静な住宅地が続く通りがある。その西端に居を構える『玄斎』は、今年で開店12年目。対象地域に神戸地区が加わった2011年版より、5年連続でミシュラン二ツ星を獲得する神戸きっての名店だ。
店主として腕をふるうのは、浪速割烹の代名詞『㐂川』の創業店主・上野修三氏の次男として生まれ、18歳で京都の名店『菊乃井』で村田吉弘氏に師事し研鑽を積まれた上野直哉氏。恵まれた師たちからの気付きをどのように自分のものにし、未来を切り開いていかれたのか。料理人という職業の魅力などについてお話いただいた。
インタビューのポイント
point.1 修業時代の1日1日をどれだけ濃密に過ごせるかが、ライバルとの力の差となる。
point.2 スタッフへの「叱り」は一言で、一つにとどめる。それでも、気付く子は気付く。
point.3 「知りたい」を繰り返すと、新たな学びと疑問に繋がる。それが「好き」となり、やがて道となっていく。
浪速割烹の礎を築いた父の背中。
お父様が浪速割烹の先がけ『㐂川』の創業店主ということで、料理の世界に入られたきっかけは、やはり家庭の環境だったのでしょうか?
上野氏:
実は子どもの頃は、父から料理人になりなさい、ということは一切言われませんでした。ただ、父も料理人ですし、9つ年の離れた兄も私が物心ついた時には既に料理の道に進み始めている特殊な環境でしたので、たまの外食も、毎回大人が行くようなところで、自然と和食の世界に触れていましたね。
特に父は大変な勉強家で、店が終わって家に帰ってきても、書斎で料理の勉強を続けるような人でした。休日、奈良にでかけるぞ、と言われて「鹿を見られる!」と喜んでいたら、連れていかれたのは美術館(笑)。そのおかげで、芸術分野…特にうつわには随分小さい頃から興味を持ち始めていました。職業の強制はされませんでしたが、土壌は自然と作られていたんだと思います。
自分の意思ではっきりと料理人になると決めたのは、中学生から高校生にかけての頃。漠然と電車の車掌さんになりたいなんて憧れはありましたが、いざ進路を決めるとなった時に、自分が料理の道以外考えられないことに気付いたんです。
料理の修業を始められたのは、高校卒業の後ですか?
上野氏:
私は調理師学校には行かず、卒業後すぐに京都の老舗料亭『菊乃井』さんで村田吉弘さんに師事し、庖丁もろくに握ったことのないところから料理のイロハを教えてもらいました。料理店の2代目3代目は、だいたい別の地域の名店と言われる場所で修業を積むというのが慣例です。父が当時、ある出版社の編集長におすすめの修業先を相談したところ、「京都なら3代目を迎えた『菊乃井』が、勢いがある。伸びている店で修業するのがいいんじゃないか」と勧められたそうです。『菊乃井』さんといえば、小学校5年生の時に私も食べに連れてもらっていて、どの席で何を食べたのかも鮮明に記憶に残っているほどの心地の良い店でした。そんな素晴らしい店で修業できるというのは、非常に有難いことでしたね。
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