夢は子どものころからシェフになることだった

幼少期の思い出から振り返っていただけますでしょうか。

ランバート氏:私はニュージーランドのオークランド市で生まれ育ちました。人口は145万人ほどで、国最大の都市です。特に西の方には、豊かな自然が広がっています。ワイナリーや果樹園がそこらじゅうにあり、入り江では毎週末うなぎ釣りを楽しんだものです。

母や祖母は、家の大きな裏庭で摘んできたワイルドベリーを使って、大量のジャムを手作りしていました。野菜も豊富に採れました。

近所の人の魚の燻製料理も思い出します。その人の裏庭にあった(古い)冷蔵庫が燻製機に作り変えられ、私たちが釣りで獲った魚をよく燻製してくれました。顔じゅう煙らけになりながら(笑)。またほかの思い出は、何時間も何時間も、裏庭の階段に座ってエンドウ豆の皮を剥いたことです。

ニュージーランド料理というものを食べたことがないのですが、どのようなものでしょう。

ランバート氏:この返答はなかなか難しいですね。ニュージーランドはキウイフルーツや魚介類が有名ですが、国が若いので長い歴史の中で進化してきた日本料理のようにこれという説明が難しいです。しかし、先住民であるマオリ族のユニークな食べ物というのは、一つ言えることでしょう。

ただし、先住民の文化の多くは破壊されています。イギリスからの入植者は、猫や犬、牛、鹿、羊など家畜も一緒に連れて来ました。開拓とともに自然の一部は破壊され、生態系にも影響しています。野生動物はキーウィやウッドピジョン(モリバト)など鳥類がメインでしたが、絶滅の危機に瀕しています。

マオリ族の調理法で今でも受け継がれているのはハンギです。ペルーやハワイにもありますが、土の中に穴を掘ってオーブンに見立て、その中で調理をするやり方です。基本的に食文化はイギリス、アイルランド、スコットランド、ドイツなどから、さらにはメキシコや中国などからももたらされました。ラム肉はイギリスから、ワインはヨーロッパから、グーズベリーは中国から、パッションフルーツはメキシコから、といった具合です。

ニュージーランド料理は?と聞かれてほかに思い浮かぶのは、シンプルで正直な食べ物ということです。ニュージーランド人の気質そのものです。ただし、「The Musket Room」の料理については「私の表現」としか言い表すことしかできません。ここで提供しているのはマット・ランバートの食べ物であり、ニュージーランドでは出合えないものです。

シェフになるのを意識したのはいつごろですか。

ランバート氏:子どものころです。両親が将来の夢を聞いてくると、私はいつもシェフになりたいと答えていました。少しだけインディー・ジョーンズになりたいと思ったこともあります(笑)。母や祖母と一緒に料理するのが大好きでした。ベンチに座っておばあちゃんとベーキング料理をしながらスプーンをペロリと舐めていたのを、今でも鮮明に思い出します。

最初の仕事に就いたのは12歳のときです。近所の人々にお菓子を売る仕事でした。飲食業に初めて携わったのは14歳のときです。地元のステーキ&シーフードのチェーン店での皿洗いでした。私は高校を1年で退学し、調理学校「オークランド・ユニバーシティ・オブ・テクノロジー」に入学し、17歳でフルタイムの仕事に就きました。

私は常に友人より先に進みたいと思っていて、21歳までには店を持ちたいと思っていました。でもハタチのころ現実を知ることになりました。そのころの私は、いろんなことを知っているようで実は何一つ知らなかったのですから、うまくいくはずがありません。一度振り出しに戻る必要がありましたが、それはすばらしい気づきでした。

家族の事情でウェリントンに引っ越してそこでもレストランで働き、19歳になったころ、高等教育過程を修了するために、国立の専門学校「フィティレイア・コミュニティ・ポリテクニック」(現、フィティレイア・ニュージーランド)に入学し、1年間勉強し直しました。

卒業後はどうされましたか。

ランバート氏:2000年、20歳の私は母と、ウェリントンにあるカフェ、「Sun Sea Air」を買い取って、その後、私はオークランドに戻り、地中海料理店で働きました。その隣はニュージーランド1、2を争う「Vinny’s」という店で、私はよく隣に物を借りに行くよう頼まれていました。そのうち「Vinny’s」のオーナー兼料理長であるマイケル・メレディス(Michael Meredith)氏と仲良くなり、彼がその後オープンした「The Grove」という店でシェフとして雇われることに。彼は今でも私にとってメンター的な存在です。

マイケル・メレディス氏から学んだことは何でしょうか。

ランバート氏:マイケルは当時の自分に、物事にもっと真剣に取り組む必要性があることを教えてくれた方です。それまでの自分は、とてもではありませんがプロと呼べるものではありませんでした。一流シェフとしてマイケルは業界での評価は高いですが、彼は奢ることなく謙虚な方というのも好感が持てました。また彼は世界的な料理のトレンドについて常に把握し続けており、私はそんな姿勢に大変影響を受けました。そして彼こそが、私がアメリカに移ることを応援してくれた最初の人です。

もう一つラッキーだったのは、「The Grove」で働いているときに今の妻に出会ったことです。彼女は当時ウェイトスタッフとして働いていました。彼女はアメリカのコネチカット出身だったので、いつかニューヨークに店を持てたらと思うようになりました。

アメリカに移住したのはいつですか。

ランバート氏:2007年です。コネチカット州のウッドバリーにある店でスーシェフとして採用され、2年ほど働きました。でも私はミシュランスターのお店がしのぎを削るニューヨークで働くチャンスを伺っていました。ミシュラン三つ星レストランのゴードン・ラムゼイ氏の店や、マイケル・グラス氏や「elBulli(エルブリ)」などです。ミシュランで三つ星を獲ることこそ、もっとも誇りに思える賞賛だと思います。

ニューヨークで飲食事業を手がけるAvroKOグループに転職し、さまざまなレストラン(Double Crown、Public、Saxon + Parole)で働いていた間、フードネットワークのリアリティ番組『Chopped』に出演する機会もありましたね。

ランバート氏:すばらしい経験でしたがストレスもありました。番組での対決で勝ったので、良しとしましょう(笑)。しかしテレビ番組での競争であまり熱くなり過ぎると、シェフとしてのキャリアにも影響します。私は経験を通して、テレビのためのシェフになりたいのではないとわかりました。何度かNetflixやフードネットワークの『beat bobby flay』で大役をいただきましたが、同じ現場で自分を見失っているシェフを何人も見てきました。私にとってはレストランの現場が大切です。私についての知名度はどうでも良く、ここで作る料理がすべてなのです。

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