
アルバイトのひとつとしてはじめたウエイターが、料理人の道へ進むきっかけとなる
ご出身が鹿児島県の喜界島だそうですね。島を出るきっかけは何だったのでしょうか。
吉野氏:僕は、初めから料理人を目指していたわけではないんですよ。実家はサトウキビを育てている農家で、長男ですし、農家を継ごうかなと漠然と思っていました。
けれど、小学校2年生のときに、島で鉄棒をやっていて腕に大ケガをしてしまいまして。当時は「薩摩隼人」と言われて育っていましたので、怪我をしても「大事にするものじゃない」と思って、痛いのを我慢して親にも訴えずに、病院にも行かずにしばらく放置していたんですよね。それが、法事の時に親戚が気づいて、大騒ぎになりました。
骨が折れたまま、しばらく放置していたので重傷化してしまい、一度は腕は切断する、という診断をされたほどでした。ただ、運が良いことに、神奈川に名医がいるらしい、ということがわかって、その治療のために神奈川の病院に行くことになったんです。
神奈川の新丸子にあったおばの家に住まわせてもらって、小学校に行きながら2年ほど通院しました。そのときに、東京タワーや、鎌倉の大仏さん、横浜の氷川丸なんかに連れて行ってもらったりして、当時の僕にとっては刺激的な日々を過ごしました。
治療後に、再び島に戻りましたが、このときの体験から、東京へ行きたいという思いを持っていて、高校卒業後はとにかく島を出たいと陸上自衛隊に入ったんです。
初めのお仕事は自衛隊だったんですね!そこから、どういう経緯で食の道に進んだのですか?
吉野氏:自衛隊では、鹿児島と北海道の2か所を経験しましたが、19歳になるかならないかというときに「やっぱり東京だ」と思って、新丸子のおばを頼って上京しました。しかし、何の目的もなく来てしまったので、困ってしまいました。
最初は、おばに紹介してもらった電気会社で働きましたが、そこも合わなくて辞めてしまって。おばにも呆れられて、追い出されるように出て行きました。そこから、住み込みで働ける新聞配達の仕事をしたんです。
朝も夜も新聞配りをしましたが、自衛隊では鍛えられていたこともあり、体力がありあまっていて。もちろん、時間も。そんなとき、新聞にはさむ折り込みチラシで、ウエイター募集というのを目にして、レストランでも働くことにしたんです。
ウエイターから料理人になったのは、どんなきっかけからですか?
吉野氏:ウエイターの仕事は、僕に合っていて楽しかったんですが、そのうち運ぶだけではもの足りなくなったんですね。実は、別のおばが喜界島で食堂をやっていて、そういうのを見ていましたし、もともとものを作ることは好きでした。だから、自分で何かを生み出す仕事がしたいと思うようになり、料理人になろうと思ったんです。これが、この道に進んだきっかけです。
料理人を経験してみていかがでしたか?
吉野氏:初めに入れてもらった洋食レストランは、料理人が僕を含めて3人いたのですが、いろいろやらせてもらい、それはそれはすごく楽しかった。「この道だ!」と思いました。これなら5〜6年経験したら、親のそばに帰って店ができるなと。結局、戻ってはいないんですけどね。
この店のあとは、数年単位でいくつかのレストランを渡り歩きました。「コックドール」や「フェアモントホテル」、「レジャンス」など。どの店も、しばらく働くともの足りなくなって、もっともっと上を目指したい!と思ってしまう。僕はけっこうストレートにものを言う性格なので、上司に意見して生意気だと言われたりするんです。すると、そんなつまらないことを言うなんてレベルが低い!と憤って、辞めてしまったりね(笑)。
この間に結婚もしたんですが、あるとき、義父に「吉野くん、店やったら?」と言われたんです。ありがたかったですが、そんな力はまだないと思っていました。店を出すならば、店舗作りや味、雰囲気を体感するためにフランスに行きたいとお願いして、1か月フランスに行かせてもらいました。
店を開店するにあたっての視察旅行でフランスへ。衝撃を受け、4年半も滞在
フランスで見聞きしたことは、吉野さんにどう映りましたか?
吉野氏:二つ星、三つ星のレストランで食事をしたんですが、それはもう、脳みそが乱れるようなショックを受けましたね。今までやっていたことは、結局は真似でしかなくて、本場はこんなにすごいのかと。
そのときに、「俺、こんな状態で店をやってもダメだな。フランスで勉強をしないと」と強く思いましてね。当初は旅行のような軽い気持ちで1か月だけ行くつもりだったんですが、その滞在予定を延ばしてもらいました。
フランスでは、どのように過ごしたんでしょうか?
吉野氏:紹介で面接を受けさせてもらったんですが、会話はわからないし、そこのレストランはダメでした。別のところを紹介してもらい、1日300人くらい入る、とあるビストロで働くことになりました。それが、フランスに行ってから10日目くらいのことです。無駄に過ごしている時間はないと思いましたから。
ところが、働きはじめて2週間くらいして「この店の料理はダメだ」と思ってしまって。そうはいっても、生活がかかっていますから我慢して働いたのですが。
僕はけっこう器用なほうだったので、2〜3か月経つ頃には「この味はまずい」「俺にやらせろ」なんて言って、僕がシェフ代理のような立場で厨房を回していましたよ。ここでの仕事は楽しかったし、給料もよかったんですが、いつものようにもの足りなくなって、「こんな寄り道している場合ではない」と5か月くらいで辞めました。
そのあとはいくつかのレストランを転々として、経験を積みました。
実は、日本を発つ少し前、ジョエル・ロブション宛ての紹介状を持っていたので、帰る前にそれをロブション氏に渡し、2ヵ月間「ジャマン」でスタジエ(研修)しました。
※ジョエル・ロブションと吉野氏
ジョエル・ロブションは「世紀最高の料理人」といわれ、31歳でM.O.F(フランスの職人に与えられる最高位の勲章)を受賞。自身の店は、ミシュランの三つ星を史上最短で獲得。51歳で自ら現役を退くも、料理界に影響を与え、リードし続けてきた。
吉野シェフとロブション氏は、パリで「ステラマリス」を経営していた頃、料理番組に 2回も誘われ一緒に出演するなどの交流があり、吉野シェフにとって料理を認めてくれた人であり心の師でもあった。
2018年8月、73歳で死去。
フランスでは、苦労はありましたか?
吉野氏:幼い頃、腕の大ケガでかなりの苦労をしましたから、フランスでの苦労なんて、なんてことはありませんでしたね。
フランス人にいじめられたことは、いっさいありませんでしたしね。逆に、フランス人をいじめてしまうってことはあったかもしれませんが(笑)。
たとえ相手がフランス人であろうとも、言いたいことは言ってましたからね。ある店では、シェフが「日本人は仕事ができない、言葉もできない」ってばかにしてきて、頭を小突かれたんですよ。そのときはプライドが許さなくて、殴り返したりして(笑)。
そもそも調理場で意地悪をされるのは、できが悪いとか努力が足りないとかセンスがないとか、いろいろなものが欠けていることがきっかけのことも多い。だから、それはフランス人がどうこうではなく、本人の責任もある、と僕は思います。もちろん、主張をすることも大事でしょう。
—日本に帰ろうと思ったきっかけは何ですか?
吉野氏:さまざまな店を渡り歩いて、シェフの立場も経験して、4年半ほど過ぎた頃、「そろそろ実力もついたし、日本に帰っても生き残れるだろう、できのいいシェフになれるだろう」という自信がつき、日本に帰ろうと思いました。
それだけでなく、おふくろの様子を見るためでもあったんです。僕はその4年半の間、実家にはハガキ1枚しか書かなかったんですよ。だから、おふくろが心配しすぎて具合が悪いなんて言うもんだから。もちろん、帰国してからすぐに会いに行き、顔を見せました。「あんた、生きてたんね」なんて言われました。