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修業時代に経験したガストロノミーの世界
あなたはドイツ出身ですが、ドイツの多くの業界にも根強い修業システムが残っていますよね。あなたも就業をしましたか?それとも料理学校へ行きましたか?
スティーラー氏:おっしゃるとおり、私も若い頃料理人としての修業を経験しました。ドイツでは「調理学校」という概念のものは存在しません。働きながら週に一度(現在は二度)学校へ行き、残りはテストを受けて単位を取るというものです。最後に試験がありそれがすべてでした。就業が基礎となり社会に出て初めて本当の勉強がスタートします。
どこで修業をされたのですか?その後は何をしたのですか?
スティーラー氏:4~5ヶ月間という短い期間でしたが、ケルンにある三つ星レストランで働きました。そこはドイツで2番目に三つ星を獲得したレストランです。そこは一風変わっていて、とても面白い場所でした。
オーナーと奥さんが接客をし、シェフはオーナーにコントロールされていました。1ヶ月半~2ヶ月ごとにオーナーと奥さんはパリのレストランへ行き、そのレストランの料理を「コピー」して自分たちのレストランで提供するのです。
この方法でミシュラン三つ星を獲得したのです!(笑)もちろん彼らは、コピーしてきた料理に多少は独自の工夫を入れたりはしていましたが…。
1980年代のことですからインターネットも無ければ、インスタグラムもありません。今の世の中ではそんなこと出来ません。他のシェフの料理をコピーしようものなら、一瞬で世の中に知れ渡ってしまいます。しかし当時は違いました。パリからはライン川の反対側で何が起きているかなんて知るよしもありませんでしたからね。
そこでの学びはありましたか?
スティーラー氏:彼らが使う素材の質です。それは今まで見たこともないような質の良いものを彼らは使っていました。料理のクリエイティブはコピーしたものだったりしましたが、料理自体は本物だったのです。
彼らのベンダーはパリへ直接出向き、最高の魚介や肉を持ち帰りました。良いものは全てパリからやってきました。フォアグラやトリュフにキャビア、他にもヒラメの一種であるターボットやロブスター、ハトなど、目を見張るほど素晴らしい食材ばかりでした。それらの高級食材が部屋中に集められました。
失敗と間違いの連続が自分の肥やしに
兵役後、ガストロノミーの世界に戻っていきましたね。
スティーラー氏:はい、兵役で私は役人用の調理を担当しました。その後、私は二つ星レストランへ行きました。当時、そこにはEckart Witzigmann(エッカルト・ヴィッツヒマン)がいました。彼は世紀の選ばれしシェフであり、とても尊敬されていました。1970年代後半から1980年代のはじめにかけて、彼は驚異的に有名になり、神のような存在でした。
今、彼はレッドブル社のコンセプトのもとにある「Hanger 7」のシェフにも所属しています。そこには世界中から様々なゲストがやってきます。彼は1950年代から60年代にかけて「Paul Bocuse(ポール・ボキューズ)」で料理していました。(「Paul Bocuse」はモダン・フレンチ料理の「ゴッドファーザー」の一人であり、多くの世代のシェフにとって指標のようなレストラン。)
その後、私は「Schweizer Stuben(シュワイザー スタベン)」へ行きました。そこは、三つ星レベルのレストランでしたが、三つ星は獲得していませんでした。当時は、若いシェフ達が腕を磨くための場所でした。そんな彼らの多くが有名なシェフになっていきました。そしてその多くの仲間と私は今でも友人です。そこでの時間はとてもとても良い経験になりました。
そこではどのような料理を出されたのですか?
スティーラー氏:そこで彼らが行っていたことは、とても革命的でした。同時にとても忙しくハードな仕事でした。当時私は22歳でしたが、そこで1年過ごし、その後地元へと戻りました。そして婚約し、フィアンセはその時すでに自分のレストランを持っていました。
私たちは農場にある古い家屋を買い、改築しレストランにしました。多くのお金をつぎ込み、銀行から借金もしました。私は当時、23か24歳にして100万ドイツマルク、約50万ユーロの借金持ちになってしまいました。私は何のあてもなく、その頃は多くの失敗をしました。でも多くを学んだ良い時期でもありました。