
阪急千里山駅の静かな住宅街にある和食の名店「旬菜 山崎」は、感性豊かな美しい料理はもちろん、隅々にまで行き届いた心尽くしのおもてなしで有名。
10代の頃より老舗料亭で修業を重ね、和食一筋の店主・山崎浩史さんに、修業時代のお話や、独立するまでの経緯、そして料理人を志すスタッフに対する思いなどをお聞きしました。
二番手さんの格好良さに憧れて。
まずは料理の世界に入られたきっかけを教えてください。
山崎氏:僕は両親が共働きだったので、毎日、兄弟3人で食事当番を持ち回りしていたんです。もちろん自分の子供が作った料理ですから、親も「美味しい!美味しい!」と喜んで食べてくれたこともあって、「料理が得意だ!」って勘違いしていたんでしょうね(笑)。料理だったら自分にもできるかなと。
でも高校を卒業して、辻調理師学校へ通いながら曾根崎の料亭「八幸」にバイトで入った時、その気持ちを根底から覆されました。
その店の二番手さんがすごく恰好よかったんですが、その人が板場に入ったらスタッフ全員がシーンとなって、背筋がピンと伸びるような厳しい方で…気楽な学生ノリで生きてきていましたので、そんな厳しい世界があるとは知らず本当に衝撃でした。
その恰好いい二番手さんが「お前、何の勉強してんねん」と話しかけてくれて。「辻調で料理の勉強をしています」と答えたところ「そしたら明日、3時に来い」と言って、料理のことを色々と教えてくれて、厳しい反面とても熱い人でした。
その人が「日本人やねんから、やっぱり日本料理やろ」と言っていたこともあって、和食の道に進むことを決めました。
そしてバイトをしながら、学校で1年間勉強した後、「紬」という料亭で本格的に修業することになりました。その時も、その二番手さんが「大きな料亭で修業して料理長になるのは何年もかかる。自分で店をやりたいという気持ちがあるなら、小さな個人店へ弟子入りし、短い期間で様々な経験を積む方がいい」というアドバイスをもらったからです。
その二番手さんとは今でもお付き合いがあって、盆暮れには今でも必ず挨拶に行っていますね。
料理の修業時代はいかがでしたか?
山崎氏:厳しすぎましたね(笑)。厳しすぎて辞めるのも怖かったくらいです(笑)。今の学生も同じだと思うんですけれど、最初はきちんとした挨拶もできなかったし、何か注意されると、「いやこれは…」とつい言い訳してしまったり…もう毎日怒られてばっかりでした。
遅刻してしまって「遅れてすいません」っていうんですけれど、「それがすいませんっていう顔か!」ってさらに厳しく怒られて。挨拶や先輩に対する接し方など、基本的なことをすべて叩き込まれたバイト時代でした。
そして次に就職した「紫苑」もやはり厳しかったのですが、厳しいからと言って簡単に転職するような時代でも無かったですし、とにかく頑張るしかない。同期の子や後から入った後輩が「コンビニに行ってきます」と言い、出ていったきりそのまま帰ってこないとか、親方の家に住み込みしていた子が、銭湯へ行ったきり帰ってこないとか(笑)…そういうことはたまにありましたけど。
怖くて「辞めたい」と言い出せる雰囲気すら無かったのですが、僕にとってはそれが良かったのかもしれません(笑)。