
やりたいことがあるのだったら、それに向かってどれだけ本気で命をかけられるか
ご出身は北海道伊達市だそうですね。まずは、家庭料理の思い出など、幼少のころについてお聞かせいただけますでしょうか。
齋藤氏:伊達市は内浦湾(うちうらわん)に面し、特産品としてホタテなどが有名です。雪が少なくとても住みやすく、リタイア後に移住される方も多く、「北海道の湘南」とも呼ばれているところです。
母が作る料理はどれもおいしかったですが、僕は実家から離れた水産高校に入学するために一人暮らしを早くから始めたので、家庭料理の思い出などはあまり思い浮かばないです。あえて言うならば、母親の味噌ラーメンは特においしかった記憶があります。シャキシャキの状態で炒めたキャベツやモヤシなどの野菜がラーメンの上にたっぷり乗っていて、独特の旨味がありました。
母方の祖父母が函館で漁師をしていたので、海や魚介類に関しては子どものころから密接な関係でした。今は禁止されていますが、子どものころはアワビやウニを自分で獲ってさばくというのをみんなが普通にやっていました。
また子どものころは、書道、ピアノ、水泳、サッカー、アイススケートなどいろいろな習い事をしていて、大会で優勝したり賞をとったりすると、ご褒美で親によく鮨屋に連れて行ってもらいました。幼少時は納豆巻きやカッパ巻きみたいなものしか食べられなかったのですが、そのうち大人が食べている鮨のおいしさがわかり始め、鮨が大好きになっていきました。
高校卒業後、東京の鮨屋で5年間働いた後、北海道に戻り札幌の鮨屋に就職したそうですね。見習い中に学んだもっとも大切なことは何でしたか。
齋藤氏:「気合い」が必要だということです。鮨職人の世界では、センスや才能、スキルがあったとしても、下っ端であるうちは認められることはありません。例えば鮨職人の世界をピラミッドのように描いたとします。上の層の人たちはお互いコンペア(比較や競争の意)することができますが、上の層の人たちと下の層の人たちでは、コンペアの対象にもなりません。スポーツ大会の日本代表選手を決める選考会で、オリンピックレベルの選手と小学生がコンペアしないのと同じです。ただし、下っ端でも気合いさえあれば、そこから何とかピラミッドの頂点に向けて登っていくことができます。修業時代の最初に学びました。
その教えはどのように学んだのですか。
齋藤氏:言葉ではなく体で表現されて学びました。水産高校時代から体育会系だったので、叩かれたり殴られたりは日常茶飯事でした。「やりたいことがあるのだったら、それに向かってどれだけ本気で命をかけられるか」ということなので、(体育会系の扱いについて)そういうものだと思っていました。
最近の鮨業界もそうなのですか。
齋藤氏:そういうやり方は残っているようですが、だんだん減っていると思います。
現在の職場ニューヨークでも、そのような日本的な教育方針で指導しているのですか?
齋藤氏:最初は同様の方法で指導してきましたが、周りのスタッフに「無駄だからやめてくれ。ここはニューヨークだから」と止められました。でも僕はずっとそのスタイルでやり続けてきたんです。教育面だけではなく、日本的なおもてなしもそうです。ここ(胸もとを指しながら)が大切だと思うので、出口までお客様をお見送りする、一人でもお手洗いを使ったらその後に綺麗にしてリセットする、扉を閉めるときや包丁を置くときに音を立てないなど、そういうようなことをずっとやり続けてきました。
でも「ニューヨークだから関係ない」って言う人がいっぱいいました。僕がニューヨーク店に赴任して約2年経ちますが、いまだにどのようなスタイルでスタッフたちを教育していけば成功なのか、答えは出ていません。結果が出るには時間もかかりますし、その方法が正しかったかどうかもすぐに答えは出ません。僕は僕の信念もありますし、想いもありますが、日本的なやり方を貫く難しさは多少なりとも感じています。
海外では職人へのリスペクトがより感じられる
鮨銀座おのでら東京店に2013年に就職し、その翌年香港に赴任しました。就職はどのように決まったのですか。
齋藤氏:僕が東京から北海道に戻った鮨屋で一緒に働いていた人(現在、鮨銀座おのでらの世界の総料理長)が、声をかけてくださいました。僕は海外で働きたいとずっと思っていたので、転職を決めました。
香港店で1年半働き、2016年ニューヨークに来ましたが、まず感じたのは、海外の人の方が日本人よりも鮨を知っている方がいらっしゃるということです。香港やニューヨークのお客様は、高級店で食事をする回数が全然違うので、経験値がたくさんあると感じます。その方が鮨を食べ慣れているかは、入店して座られる瞬間やオーダーの仕方、食べ方や飲み方などを見るとだいたいわかります。海外では、何十億の資産があるような人からでも、僕ら職人へのリスペクトがひしひしと感じられて、会話一つにしても同じ目線でしてくれる印象です。