「料理の鉄人」の元で働くフランス料理のシェフになった日本での修業時代

ご自身が初めてお料理をしたのはいつのことだったのでしょう。また、その後料理人として働こうと決断したきっかけについてお話をお聞かせください。

浜野氏:中学生の頃でした。両親はトマト農家でしたから毎日早朝から非常に忙しく、母は私のお弁当を作ることができなかったため、嫌々自分で作った弁当が初めての料理でした。
中学生でしたから、最初は油の温度もわからず揚げものすらうまく作れませんでしたが試行錯誤しながら毎日作っていましたね。

自分で作るようになってからは、いつもより30分早く起きてだんだんおかずの種類を増やし、見た目も綺麗にしようとさらに早く起きて料理をしているうちに少しずつ上達していきました。
そうしていると、ある時クラスメイトの女の子からお弁当を褒められたのです。あまり褒められた記憶がなかったので、本当に嬉しかったのです。それが料理の楽しさに気づいたきっかけでした。でもそれで料理人になろうと思ったわけではなかったです。

その後進んだ高校の成績は悪くなく、大学への推薦も受けられる状況でした。
両親や学校の先生は大学への進学を強く薦めましたが、進路を決めるこの時点でこのまま自分自身が強く望まない道を進んでいいのか、という思いがよぎりました。それから過去の料理に対する思いが急に膨れ上がり、両親と先生に料理を仕事にする意志を伝えました。

ご両親の反応はいかがでしたか?

浜野氏:強く反対されましたね。
両親には、「まずホテルの厨房で働いてみてどんなに過酷で難しいことか知るべきだ」と言われ、ホテルで働くことにしました。
すると、むしろ料理の世界に魅せられてしまったのです(笑)
洗い場から見るキッチンではシェフたちによって料理の皿が次々と仕上げられていきます。この眺めを単純にかっこいいと感じました。

そういった経緯もあって両親も諦めて料理学校に進むことに同意してくれました。
しかし最初に志していたのはフレンチではありません。料理学校時代にアルバイトしていた中華レストランの賄いが美味しく、中華料理の料理人になろうか、などと思っていました。
最終的に料理人としての最初の修業先に選んだのはフレンチレストランの坂井宏行シェフのお店「ラ・ロシェル(La Rochelle)」でした。
私が最も尊敬する料理人であり、偉大な師匠です。

「ラ・ロシェル」の坂井宏行シェフといいますと、日本では当時最も有名でメディアで最も露出の多かったフレンチのシェフだったと言えるのではないでしょうか。どのように出会われたのですか。

浜野氏:料理学校に坂井シェフがお越しになり、特別講義をしてくれたのです。懐石料理のようにも見える美しいフレンチ料理の皿を仕上げていく様は圧巻でした。その特別講義を聞いているうちに「坂井シェフのところで働きたい」と思い始めました。

シェフが最後に「質問はありますか?」とおっしゃったときに、100人ほどいる生徒のうちほとんど誰も手を挙げるものがいませんでした。そこで、思い切って手を挙げて「シェフのもとで研修がしたいです」と発言したのです。本来は授業についてや坂井シェフに関する質問の場だったのですが。すると坂井シェフが「じゃあ来なさい」と言ってくれて。それがきっかけでした。

一度道が開いたら進むだけです。踏み出す一歩に勇気があればそれに向かって努力するだけです。後悔するのは選んだ道で失敗するからです。選んだ道を失敗しないためには死ぬほど努力するしかありません。または、失敗しても続けるしかないです。あっちをやればよかったと思うのはこっちの努力が足りないのだと思っています。

店舗から提供頂いた料理写真

日本での坂井宏行シェフのもとでの修業時代。アラン・パッサール氏と坂井宏行氏の料理対決

ラ・ロシェルではどういった研鑽を積まれたのでしょう。

浜野氏:ラ・ロシェルでは最初の一年はホールと調理場で半年ずつ働きます。調理場には15人から16人いて、そのうちパティシエが5人から6人。

研修を始めた当時、テレビ番組の「料理の鉄人」が始まったばかりでしたから、お客様も多く訪れており、新入社員が14人も入った時でした。
そのような大所帯で働いたことはとても良い経験になりました。なぜなら、競争心を湧かせてくれるからです。少しでも早くより良いポストを得るため、いかに早く綺麗にできるかをいつも考えていました。

仕事のない日でも、材料を買っては自宅で毎日鍛錬を続けていました。レストランではアスパラのガクとりはさせてもらえますが皮をむく処理はさせてもらえなかったのです。ですから自宅で練習しました。
仕事をもらうチャンスを伺っては、自分から率先して「できます」と言って仕事をもらっていました。負けず嫌いだと自認しています(笑)

当時の自分には技術がなかったので、自分より上手な人に勝つ方法をいつも考えていました。半年ホール、半年調理場の勤務ののち、ついに前菜担当に回してもらえました。

そうして働いているうち、あることに気づきました。
物は考えようだということ。発言や志が将来を決めるということです。
厨房で働く同僚の料理人たちは、楽観的で肯定的な発言ばかりするグループと悲観的で否定的な発言ばかりするグループに自然と分かれていきます。
ポジティブなグループのものたちはいつも夢や将来の展望を語り、彼らはその後実際にヘッドシェフやオーナーシェフになるなど、皆それぞれに夢を叶えていきました。
20歳の時にネガティヴな発言は今後一切しないと心に決めました。それ以来、「疲れた」と「忙しい」は決して言わないようにしています。また、目標には期限をつけて実行するよう気をつけています。

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