調理場を前に撮影した仲本氏

0.1%の可能性が自分にはあるかもしれない

以前は同じ場所で、ご両親が食堂を経営されていたと伺いましたが、どんなご家庭でしたか?

仲本氏:僕は定食屋の一人息子として生まれたものですから、小さい頃は厨房の隅に置かれた段ボール箱の中で面倒を見てもらっていたらしいです(笑)。父はもともと横浜で中華の料理人をしていました。その頃に知り合った母が木津の定食屋の娘だったんです。「仲本食堂」は母方の祖母が始めた定食屋で、その後に父が継いで、その息子の僕が食堂をやめて、同じ場所に「リストランテナカモト」を開きました。ですから、形を変えながらも三代続いているんです。

すぐ目の前に木津川市役所がありますが、僕が子どもの頃はまだ町役場でした。お昼時になると町役場で働くみなさんの社員食堂のような感じで、「仲本食堂」はなかなか忙しい店だったことを覚えています。僕も小学生になると当たり前のように店を手伝うようになっていまして、夏休みになると昼時の11時ぐらいから手伝いを始めて、午後の3時ぐらいまでは出前をしていました。「町役場の何階の何課まで」という具合に注文をいただいて、僕が出前に行ってお金をもらってくるんです。2時ぐらいになったらお皿を下げに行って、自分で洗って片づけて。3時頃からやっと外に遊びに行かせてもらえました。

生まれながらにして料理と一緒に生活をされてきたんですね。

仲本氏:でも、中学・高校になるとバスケットボールに熱中し、毎日クラブ活動漬けで、ほとんど店を手伝うことはありませんでした。料理人になるという意識も特になくて、バスケットの本場であるアメリカに留学したいと思っていたぐらいバスケに夢中でした。でも留学なんて夢のまた夢で、高校を卒業したら大学に行こうと考えていたんです。

でもよくよく考えてみたら、大学に行っても特にやりたいことがあるわけでもありません。バスケは続けるでしょうが、その先に何をするのかは決めていませんでした。大学の4年間が終われば、また新しい何かを探してゼロから始めるわけです。それならば、別に進学しなくてもいいと思うようになりました。

ご両親から店を継いで欲しいというお話はなかったんですか?

仲本氏:父の口から店を継いで欲しいとか、料理を覚えろといった言葉が出てきたことは一度もありません。また、母にいたっては、料理人にだけはならないで欲しいと言っていたぐらいです。
先ほどもお話をしましたが「仲本食堂」は、昼は町役場の職員の食堂として賑わい、夜は職員のみなさんが一杯飲んでいくような食堂です。公務員の方が仕事を終えた時間に自分たち家族は働いていて、営業時間以外でも仕込みや掃除をしたりして忙しく立ち回っています。その割には、思ったほど儲けはありません。そういう生活を僕にはさせたくなかったのでしょう。普通に大学に行って、普通にサラリーマンになって欲しいと母は考えていました。

でも母の言葉は、僕の胸には全く響いてきませんでした。なぜなら、そんなことを言う母こそ、とても楽しそうに定食屋の仕事をしていたからです。お客様においしいものを提供して、喜んでもらう仕事をいつも楽しそうにしている姿を見ていましたし、僕も店を手伝っていて「おいしかったよ」と言ってもらえると、自分が作ったわけでもないのに、とても誇らしい気持ちになれました。

料理人に限らずどんな仕事も同じですが、好きだからと言って楽ができるわけではありません。好きだからこそ、つらいことも我慢できるのではないでしょうか。スポーツも一緒ですよね。どんなに練習がきつくても、好きなら頑張れるし、試合で点を入れれば最高にうれしいものです。

そんな風に進路を迷っていると、父が料理の専門学校に行くなら学費を全部出してやろうと言ってくれました。大学では奨学金を借りるつもりだったのですが、父が工面してくれるなら、それに越したことはありません。「料理の専門学校なら、そんなに厳しくなさそうだし、あと1年は親のお金で遊べるなら言うことないな」というのが当時の本音です(笑)

同級生たちが受験勉強をしている高校3年生の夏休みには願書も出し終わって、車の免許まで取ってすっかり遊んでいました。要するに、いろんな進路の選択肢がある中で、目の前の一番安易な道を選んだわけです。

専門学校で学んだことで、今の仕事に活かせているのはどんなことでしょう?

仲本氏:大阪の辻調理師専門学校に入学したのですが、遊んでばかりで、まじめに授業を受けていませんでした。クラスに100人ぐらいの同級生がいましたが、教室の前から3列の生徒は本当にまじめに授業を受けている人たちでした。一度社会に出てから料理人の道を目指して入学した人も多くて、とにかく意識の高い人たちです。真ん中の3列が、まあ普通に授業を受けている人たちで、僕は後の3列で授業を聞いていないグループでした。

専門学校での授業はあまり覚えていないのですが、いまでも覚えていることがあるんです。

それはある日、学校の卒業生で日本料理の有名な方が外部講師としていらしたことがありました。
生徒の前に立つといきなり

「前から3列に座っている君たちは、きっと失敗しないだろう。料理の世界でやっていける。でも、飛びぬけた料理人にはなれない」とおっしゃるのです。僕は驚きました。
「頑張って勉強している同級生に対して、何てことを言うんだ」と。

さらに「真ん中の3列は、飲食業界では働かないだろう。違う道で上手くやっていけるかもしれないのが君たちだ。そして後ろの3列にいる人たち。君たちは99.9%料理人として成功しない。」と言い切るんです。「だけど、その中から稀に、ずば抜けた料理人になる奴がいる。私も、その中にいた人間だ」と。

何だかよくわかりませんでしたが、その言葉がとても強烈で印象に残っています。
自分みたいな者でも0.1%は成功するんだと思って、ポジティブというか、都合よく受け止めましたね(笑)それからはちゃんと勉強する気持ちになりました。
出席日数がギリギリながらも何とか卒業できたのは、あの時の言葉があったからかもしれません。そのようにして専門学校での1年間は、あっという間に過ぎていきました。

インタビューに受け答えする仲本氏

そして料理人としての人生がスタート。いつからか抱き始めたイタリアへの憧れ

辻調理師専門学校を卒業された後というのは?

仲本氏:最初は奈良の新大宮にあるパスタ屋さんに就職しました。飲食店街にあって、夜遅くまでパスタが食べられるのが人気のお店です。初めてオーナーシェフの方にお会いした時、快く受け入れてもらえて、卒業したらすぐに店に来なさいと言っていただきました。4月から働くようになったのですが、華やかな見た目とは違って、飲食業界の裏側は大変であることを体感しました。

専門学校ではまじめに勉強をしていなかったものですから、料理なんてほとんど何もできないのに、いきなり調理を任されて驚きました。もちろん上手くできるわけがなく、失敗するとひどく怒られました。「教えてください」とシェフにお願いしても、「裏にある本でも読めばいいだろう」という感じで…思い描いた世界とは違いました。

お店の方は、特に繁盛するわけでもなく、そのうち僕を抱えておくのも苦しい状況になったのだと思います。オーナーから「知り合いの店が人を探しているから、そっちに移ってみないか」と打診を受けました。特に残りたいという想いもありませんでしたし、断る理由もなく、次のお店にお世話になることになりました。そこで知り合ったのが、当時イタリアから帰ってこられたばかりの田中シェフです。この方の影響を受けて、やがて僕自身もイタリアへ料理修業に行くことになります。

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