株式会社ライトハウスの巽益章氏が橋のたもとで笑顔で腕組みをして立っている写真

巽 益章(たつみ よしあき)氏/株式会社ライトハウス 代表取締役社長

1962年生まれ。甲南大学卒業。マーケティングプロデューサーとして、ファッション業界で活躍。新たなブランドの発掘、若手デザイナーの育成に尽力する。2004年に飲食業界に参入。松阪牛一頭買いによる飲食店「松阪牛焼肉M」「ニッポンバル」「中之島ビーフサンド」のほか、犬のおやつ「SLOW DOG」を手がけ話題に。講演多数。趣味は仕事とゴルフ。

2019年、世界の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」で、入賞し続ける店があります。その名は「松阪牛焼肉M」。「外国人に人気の日本のレストラン」部門で2014年に第1位を受賞。以来、6年連続で入賞しています。昨年は、同サイトの「トラベラーズチョイス・レストランアワード2018」を受賞。日本で第1位・アジア全体で第5位として評価。大衆点評では、最高評価の5つ星を獲得しました。

お店のつくり、料理は何一つ変えずに、インバウンドによる観光客が増加。そのヒミツは“大阪流のおもてなし”。代表の巽さんにこれまでを振り返っていただきながら、インバウンド戦略での成功の舞台裏、自身の夢についてお話を伺いました。
ご自身のクロニクル(年代記)もあります。

商売の原点は、食品卸問屋の会社を興した祖父

──今日は多くの店が頭を悩ませる「インバウンド戦略」や、これまでのあゆみについてお聞きしたいと思います。
はい、よろしくお願いします。今回、この取材を受けるにあたり「人生の折れ線グラフ」を提示するということでさっそく表にしました。

株式会社ライトハウス巽氏の人生の折れ線グラフ

──ありがとうございます。現在に至るまでに深いV字がありますね。
そうですね。最初の出店こそ良かったのですが、今思えば自らマネジメントしていなかったんですよね。この表をつくってみて、そういえば子どもの頃から、「他人任せ」な自分だったなぁと気づきましたよ(苦笑)。

──「他人任せ」だったら、起業はできないと思います。それでは、その頃のお話からお聞かせください。ご実家も商売をしていらしたとか。
はい、実家は食品卸問屋を営んでいました。祖父の代に大阪府柏原市で創業。小学生の頃は、学校が終わると会社に立ち寄り、従業員が働く現場を眺めるのが好きでしたね。

──友達と遊ぶよりもですか?
はい、朝も従業員といっしょに、炊きだした茶粥(ちゃがゆ)をかきこんで、学校に行っていました。

──昭和らしい風景です。
祖父からはお金の生み出し方も教わりました。例えば配達に行って注文がとれたらお駄賃がもらえたり。醤油の入った木箱を解体して、釘1本まっすぐに抜くことができたら、1本いくらで回収してもらえたり。

──巽さんの起業家スピリットのルーツは、幼少のころにあるんですね。
そうですね。祖父からは「時代に合わせて変化することはいいけれど、それに合わせて人の付き合い方を変えたりするな」とかね。いろいろ教わりました。

──すてきなおじいさまですね。
祖父の代の頃は、問屋業界も活気がありました。
その後、高校は親父のすすめで上宮高校へ。大学は一浪の後、友人に誘われて甲南大学に進学しました。人生の節目もいつもどこか「他人任せ」な自分でしたね。

今思えば、自分は実家の商売を継ぐと思っていたんですね。しかし問屋業界も不況になり、商売を継ぐこともありませんでした。

「トリップアドバイザー」から授与された認定証書が並んでいる写真

社内には、世界の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」から授与された認定証書がズラリと並んでいました

20~30代はファッション業界のマーケッターとして活躍

──大学卒業後は?
友人たちが、就職活動に励む姿を見ながらも、なんか他人事のような気がして…。ところが、ひょんなことからアパレルの世界で、企画PR・マーケティングの仕事を行っている「株式会社グラフィティ21」の社長と知り合いました。

──ファッション業界の仕事からスタートしたんですね。
そうです。社長は無名だったクロコダイルブランドを超有名ブランドに育て上げたメンズカジュアル業界ではカリスマプロデューサーと言われた方です。

──そこでマーケティングの基本を?
入社した当初は社員10人。一時は3人の時もありました。寝る間もない丁稚奉公(でっちぼうこう)のような毎日。

今では考えられない働き方でしたが、商品をどう見せ、どう売るか、消費者の同行を調べ、効果的にPRしていく術をここで鍛えられ、仕事の面白さを知りました。

──充実した毎日だったんですね。
その後、1991年に開業した「神戸ファッションマート」の立ち上げに、外部スタッフとして携わり、30歳を機に転職したんです。

腕を組み真剣な面持ちで語る巽氏の写真

──能力を買われて引き抜かれたんですね。
「神戸ファッションマート」(運営:ジャパンマーケットセンター株式会社)は、六甲アイランドにある、ファッション産業の中核施設の一つです。

神戸市も関わっており、アパレルショップのほか、オフィスや、会議室、展示会場なども併設する施設です。

──どんな仕事を?
そこでは広報、販促、宣伝PRに携わり、神戸をファッションの街として盛り上げるために、若手デザイナーの発掘や育成、ファッションショーの開催も手がけました。

阪神淡路大震災をきっかけに再スタート

──アイディアがカタチになる仕事。ワクワクします!
しかし1997年、阪神淡路大震災が起こりました。「神戸ファッションマート」も、震災後の住環境を整えるため“インテリアマート”にすべきだと提案しました。実際、ファッションどころではなかったので。

──「神戸ファッションマート」にはインテリアや家具店が多いですよね。
それは震災後なんですよ。でも結果的に自分で提案しておきながら、インテリア業界に詳しくない私は存在価値があるのかなと考えました。悩みましたが、これを機に思い切って独立することにしたんです。

企業した事務所の外観

1997年、35歳で大阪市天王寺で起業。1Fにはサーフショップも併設

──マーケッターとして起業ですね。
事務所は、大阪市天王寺区。ママチャリで営業活動をスタートさせました。しかし「私、マーケッターです」って商店をまわっても「なにそれ?」って(笑)。

──たしかに…。
それでもお店のコピーライティングの仕事などを請け負ったり、アパレルメーカーをまわり始めて、すぐに経営は軌道にのりました。

──独立成功ですね。
大手アパレルメーカーから次々と依頼が相次ぎ、社会的地位も確立し、思った以上の収入を得られるようになりました。仕事は順調でしたね。丁稚奉公時代の苦労が活きました。でもこれでいいんかなと…。

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