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突如として方向転換して目指したシェフへの道
シェフになろうと考えたきっかけを教えてください。
田中氏:
父は洋食のシェフで、伯父も祖父もそれぞれ店を持って料理人として働いていました。そういった環境もあり、小学生の頃から父のお店を手伝っていたので、料理の世界に入ることが自然な選択でした。
私は子どもの頃から洋食の料理人かサッカー選手になろうと思っていました。高校生まではサッカー選手を目指していました。東福岡高校で高校三年生の夏までサッカーをして、部屋にはサッカーの資料だらけでした。しかし、高校三年生の夏にサッカー選手にはなれないとわかりました。じゃあ、子供の頃から親しんでいた仕事である料理人になろう、と直ぐに決断しました。サッカー関連の本やポスターなど全て捨てて、その代わりに父の持っていた料理本を自分の部屋の本棚に置き、それを読んで料理人を目指すことにしました。
日本では3年ほど働きました。最初に働いた「ホテルニューオータニ佐賀」では伯父の友達が料理長をしていたことがあり紹介をいただいて、その後東京の「アピシウス」で働くまではいくつものお店で働きました。
東京の「アピシウス」には飛び込みで面接に臨みました。座り込んで「帰らない」と言って雇ってもらおうと思っていました。
履歴書も持って行かず、面談をしただけで就職させていただきました。なぜ就職できたかと言うと、シェフの料理や来歴を勉強していたからです。昔話が出てきてもその話についていけるよう事前に勉強していたので、会話が弾んだのです。
偉大な料理人の人生についての本など、父から譲り受けた料理本50冊ほどを全て熟読していました。
東福岡高校といえばサッカーの名門ですね。進路のドラスティックな転換に迷いはなかったですか?
田中氏:
私は一度決めたら迷うことがないですね。サッカーをしていた頃はサッカーのことだけを考えていました。料理をすると決めたら料理のことだけを考えるだけのことです。
フランスでの修業のために寝る間を惜しんで本業とアルバイト
日本とフランスでの修業時代についてお教えください。
田中氏:
フランス料理を始めてからはフランスに行くことを決めていましたから、フランスに行くことから逆算して考えて、ここ、ここ、ここ、とキャリアを決めました。
まずはフランスへの渡航の為にはお金が必要だと思い、フランスに行く費用を貯めることだけを考えたくさん働いて貯金に励みましたね。
「アピシウス」では1年2ヶ月ほど働いていましたが、そのうち1年間は同時に「吉野家」でも週に4日ほど夜間働いていました。「吉野家」では、閑散時間帯にソムリエの勉強をしていました。仕込みと準備や掃除を全て終わらせてから、夜中の1時から3時までのお客様が少ない時間帯。防犯カメラにはずっと座っているのが映っていたと思います(笑)。
朝定食の準備が始まるまではずっと机に向かっている状態で、この当時は1週間あたり9時間しか寝ませんでしたね。「人間て強いな」と思いました(笑)。
同じことをした後輩は3ヶ月で倒れましたが。働いている時は、体は寒くて頭が熱くて、という状態が続いていました。結局ワインエキスパートの試験には落ちてしまったのですが、その無茶をした経験があったから今は何をやっても楽だと思えます。
渡航日は忘れもしない、2006年5月6日。ゴールデンウィークの次の日で安かった大韓航空の6万8千円の航空券を買ったんです。
それまでは1ヶ月ほど家がない状態でしたから、よく覚えています。というのも、実は渡航前の最後の1ヶ月は住まいも引き払っていました。働きづめで家に帰ることも殆どなく不要だったからです。