
目次
- 1 負けず嫌いからのスタート、様々なジャンルを学んだ20代
- 2 ワインバーで若き料理長に、身に付けた責任感とコミュニケーション力
- 2.1 8年いた「小川軒」から、他へ移ろうと思われた理由は何だったのですか?
- 2.2 ワインについては、ある程度の知識はあったのですか?
- 2.3 ワインのことはサービスマンに任せるという料理人の方も多くいらっしゃいますが、高橋さんは作り手もワインのことを知っておくべき、という考えが強くあったということでしょうか。
- 2.4 そうだったんですね。「シノワ」で料理長になられたのはいつ頃ですか?
- 2.5 料理長になって、仕事のやり方やスタイルは変わりましたか?
- 2.6 料理長になったばかりでスタッフの入れ替わりもあると、すごく大変だったのではないですか?
- 2.7 スタッフの関係性を構築するのに、何か工夫されたことはあるのですか?
負けず嫌いからのスタート、様々なジャンルを学んだ20代
料理人になられて30年近いキャリアをお持ちの高橋さんですが、料理人になろうと思われたきっかけは何だったのですか?
高橋氏:小さい頃から工作や絵を描くなど、物作りが好きでした。また、スポーツも得意で、野球やバスケットボールなど、チームでプレーする競技が好きでした。それで、将来は物作りとチームプレーを両立させられる仕事に就きたいと思っていた中、自然の流れで料理の道に進んでいました。
高校を卒業してすぐ東京調理製菓専門学校に入り、通学しながらファミリーレストランでアルバイトをしていたのですが、そこで料理を作る楽しさやチームで働く喜びに触れることができました。
僕らの時代は、ファミリーレストランは今より高級で特別な場所だったので、その空気感も心地よかったですね。
卒業後はすぐにレストランに就職されたのですか?
高橋氏:箱崎にある「東京シティエアターミナル」という、色々なジャンルのレストランが入る施設に父親の紹介で入れてもらい、そこで1年半働きました。
ところが、レストランで働きたかったのに、僕が最初に配属されたのは社員食堂でした。なんだか取り残された感じがしましたね。負けず嫌いだったので、「なんで自分だけ」という思いが強くありました。
しかも、1年経って配置転換があったときも、同じ社員食堂にいた中からレストランに変わったのは別の子で。「専門学校での成績が良かった人が優先」というようなことを直接言われたときは、本当に悔しくて。それで、他に移って見返してやろうと思い、1年半で退職しました。
次の就職先は、どのようにして探したのですか?
高橋氏:色々食べ歩きしている中で、当時、世田谷の桜新町にあった、洋食で有名な「小川軒」三兄弟の三男の方がされていたレストランに出会ったんです。そこのアットホームな雰囲気が気に入って、ここで働きたいと思い、面接をお願いして入れていただきました。
そこで洋食に出会われたのですね。
高橋氏:そうですね。それまでの社員食堂時代は、最低限の基本的なことは学びましたが、そんなに厳しくなかったので、小川軒に入ってからは目の前の仕事を覚えるのに必死でした。余裕のない日々を送っていましたね。
入社して3、4年経った頃、働いていたお店が立ち退きになってしまったんですが、小川社長の紹介で、当時の東邦生命ビルにあった鉄人坂井さんのお店や、鵠沼にある「ラシェットブランシュ」という洋菓子店で働かせてもらい、料理の基礎からお菓子作りまで、様々なことを学ぶことができました。
最終的に、「小川軒」が御茶ノ水にお店を開くときに戻ったので、トータルでは8年ほどお世話になりました。
20代の料理人として、一番勉強する時期のほとんどを「小川軒」で過ごされたのですね。
高橋氏:今考えれば、もう少し腰を据えて、ひとつのところでしっかり学んで30代を迎えた方が良かったのかなとも思いますが、この時期に色々なジャンルの様々な仕事を見られたのは、ありがたい環境でしたね。
ワインバーで若き料理長に、身に付けた責任感とコミュニケーション力
8年いた「小川軒」から、他へ移ろうと思われた理由は何だったのですか?
高橋氏:何となく「そろそろ他の所を考えようかな」と思っていたときに、かつての師匠に誘われたんです。「小川軒」での僕の師匠が、銀座のワインバー「シノワ(Chinois)」のオープニングスタッフとして入っていたんですよ。
「シノワ」がオープンして1年弱した頃に、忙しいから手伝いに来てくれないかと、師匠から直々に声をかけてもらい、そちらで世話になることにしました。
僕は横浜の田舎出身なので、銀座というのは憧れの場所で、そこで働いてみたいというのもありましたしね。
ワインについては、ある程度の知識はあったのですか?
高橋氏:全くわからなかったので、必死で勉強しました。周りはみんなワインのことを知っているけれど、自分だけついていけないという惨めさもあり、ワイン学校にも通いました。
料理は「小川軒」とベースは同じだと思ったので、それほど苦労しませんでした。それよりも、ワインの勉強という感じでしたね。
ワインのことはサービスマンに任せるという料理人の方も多くいらっしゃいますが、高橋さんは作り手もワインのことを知っておくべき、という考えが強くあったということでしょうか。
高橋氏:もちろんそれもありますが、当時はソムリエさんがすごく脚光を浴びていた時期で、悔しい と思ってしまったのが正直なところです(笑)。
師匠もソムリエの資格を取っていたので、自分も取らなければとは思いました。何人かのスタッフがソムリエ試験を受けるというので、負けず嫌いの自分としては、受けないわけにいきませんでしたね。
そうだったんですね。「シノワ」で料理長になられたのはいつ頃ですか?
高橋氏:ちょうど30歳になる1991年ですね。ソムリエ試験を受けようとしていたときに、「高橋くんよろしく」と、料理長に指名されました。ただ、そのときは僕よりも先輩がいましたし、ソムリエ試験もこれからだったので「僕には無理です」とお断りをしましてね。ところが、「これを乗り越えたら君も成長できるよ」とうまく言いくるめられて(笑)。それで、最終的にお受けすることにしました。
料理長になって、仕事のやり方やスタイルは変わりましたか?
高橋氏:責任感やものの見方が随分変わりましたね。当時はスタッフの入れ替わりもありましたし。
料理長になったばかりでスタッフの入れ替わりもあると、すごく大変だったのではないですか?
高橋氏:そうですね。ただ、逆に残ってくれたメンバーはまとまっていたので、大変という感じはしませんでした。僕が初めての料理長だったこともあって、オーナーがスタッフを揃えてくれたんだと思います。少ないながらも良い人材に恵まれました。
それから、渋谷店のオープンでそちらに移ったのですが、そのときはスタッフ同士の関係性を最初に作り上げることが大変でしたね。渋谷の店舗は60席ほどあったのですが、ランチタイムは一気にお客様がいらっしゃるので、スタッフが揃っていないと回らないんですよ。
スタッフの関係性を構築するのに、何か工夫されたことはあるのですか?
高橋氏:僕はストレートに裏表なくやっていけば、相手は分かってくれるというスタンスなので、それはずっと貫いていますし、幸いみんなもついてきてくれています。
ただ、当時は器用ではなかったので、僕と合わない子とは上手くやれず、何人かはいなくなっていきました。料理長を長くする中で、そのバランスが少しずつ取れるようになっていったように思います。