CLOSEと書かれた木の看板の写真

今回、取材させて頂いたのは、2005年~2016年までの11年間、関西でイタリア料理店のオーナーシェフをつとめていたYさん(45歳)。
地元の馴染みの客も多く、閉店する2年ほど前までは平日のランチはいつも満員、休日はファミリーで賑わい、20席ほどの規模で月の売上は220万円ほどあったという。なぜ、それが閉店という選択を余儀なくされたのか、Yさんが閉店という決断に至るまでの話を伺った。

元イタリア料理店オーナーシェフ、Yさんのこれまでの歩み

  • 中学卒業後、調理師学校で学ぶ
  • 1989年 郊外型ホテルの洋食調理場を3か所経験し、阪神淡路大震災を機に転職。個人店の調理場で修業を積む
  • 1998年 大阪市内外の複数のイタリアンレストランで料理長として腕を振るう
  • 2005年 兵庫県郊外にオーナーシェフとしてイタリア料理店をオープン
  • 2010年 Yさんの地元ほど近くにイタリア料理店を移転
  • 2016年 イタリア料理店を閉店
  • 現在 人材紹介会社や知り合いのつてで、ホテルのシェフヘルプや老人ホームのレストランに勤務。今後再びイタリア料理店への就職を目指している。

玉ねぎを切るコックコートの人の手元の写真

明けても暮れても板場に立ち続けた修業時代

調理師専門学校を卒業後、Yさんは「とにかく現場で修業を積んで、早く一人前になりたい」という思いから、ホテルと街場レストランで修業を積んだという。
「約2年に1度のペースで転職し、いろんな職場を経験しました。休みの日には他の店のヘルプに入り、先輩たちの技術や現場の回し方などを学びました」とYさん。
当時の飲食業界は、「技術は先輩に教わるものではない。見て体で覚えるもの」という考え方が根付いていた時代。時に先輩から熱い拳が飛んでくることもあったという。「それが当たり前だと思っていました。この世界で早く一人前になるために、多少の理不尽なことは僕にとって問題ではなかった」。

知らない土地でスタートした自分の城

厳しい現場で叩き上げられ、Yさんは知り合いのつてを頼りに自分の店をオープンさせる機会を得て、2005年晴れて31歳でイタリア料理店のオーナーシェフになった。
「自分にとっては縁もゆかりもない場所でのスタートでした。不安な気持ちはありましたが、当時一緒にオープンの手伝いをしてくれていた人の地元とあって、少しずつ常連さんも増えていきました」。
当時の店は20席ほどで、月の売上は約130万円。兵庫県の郊外エリアということもあり賃料が安く、なんとか店を軌道に乗せることができたという。
しかし、オープン当初に手伝ってくれていた人との関係性に亀裂がはいり、開店4年目を過ぎた頃から地元に戻りたいという思いがYさんの中で大きく膨らんでいったという。

地元からほど近い場所に店を移転

Yさんの地元から車で15分ほどの場所に、ちょうど良い物件が見つかり2010年に移転。席数は以前と同じ20席。住宅街ということもあり、平日のランチはほぼ満員、休日ともなればファミリーやカップルなどで賑わっていたという。
「テレビなどでも紹介されたことで、客足は順調に増えていきました。その頃に結婚した妻がパティシエということもあり、店を一緒に切り盛りするパートナーを得たことも大きかったですね」とYさん。
イタリア料理店は地元で愛される店へと成長した。

歯車が狂いだした最大の理由は「人の出入り」

白シャツに黒いベストとエプロン姿の人が後ろで手を組んで立っている写真

順調だった経営に暗雲が立ち込めてきたのは移転してから4年ほど経った頃。パティシエとして店に立っていた奥さんが妊娠したことをきっかけに、新たに右腕となる新卒の調理スタッフを雇うことに。しかし、1カ月も経たないうちに突然来なくなり、それからアルバイトやスタッフを何度か採用するものの、同じように突然姿を消されてしまう事態が続いたという。
「原因は僕にあると思っています。僕自身が叩き上げでここまで来たという自負があり、僕が人を育てる番になっても、新人は働いてなんぼ、厳しい指導に耐えてこそ成長があると信じて疑っていませんでした。つまり、時代に合った人材育成ができなかったんです」とYさん。

厳しい現場にも耐え、多くの技術を学び成長してきたYさんは、厳しく指導することが教育なのだという考えに固執し過ぎてしまったという。「当時、僕はモラルハラスメントという言葉すら知らなかった。経営者として情報収集や勉強がまったくできていなかったこともあって、ただ叱ればいいという時代ではないことに気づくことができませんでした」と話す。

さらに追い打ちをかけた競合店の進出

人材不足が深刻化する中、Yさんはキッチンに立ちながらホールも対応し、何役もこなしながらなんとかその場をしのいでいたという。しかし、2軒隣に突如現れたパスタとハンバーグを扱う競合店。ママ友やファミリー層の客足が伸び悩む冬休み中にその店はオープンし、客足は一気にその店へと向いてしまったという。
「店がバタバタしていてお客様にもご迷惑をかけていた頃ということもあり、競合店の出現は本当に痛手でした。客足が遠のくのは一時的なものだと考えていましたが、しばらくしてまた近くにイタリアンバルもでき、店を回すので精一杯だった僕は、何の対抗策も打てなかったのです」。

そして自身の納得がないまま半年後に閉店

テーブルにワイングラスが置かれたモノクロの写真

競合店の進出により赤字が続いたイタリア料理店。このままでは立ち行かなくなると半年後に閉店することを決めたYさん。しかし、現在もその後悔は大きいという。
「開業当時に国庫から借りた資金返済も残っているので、今は人材紹介や人のつてを頼りに料理人としての仕事を続けています。でも毎日思うのが、どうしてあの時あんな風にしてしまったんだろう…どうしてもっとこうしなかったんだろう…という後悔の念です。店を失うまで何も気づけなかった自分自身に憤りも感じていますが、今回のことで学べたことはとても大きいと思っています。この経験を活かして、できればまた自分の店が持てるよう前に向かって進んでいきたいと思っています」。

まとめ

もっとこうしておけばよかった!Yさんの後悔&失敗から学ぶ

  • スタッフの教育において自分の考えややり方に固執し過ぎてしまい、時代の流れが読めていなかった
  • 問題が起こっても対処療法のみで、1年後、3年後…の長期ビジョンで店の経営を考えていなかった
  • エリアのマーケティングや競合に関する情報収集や対策を講じていなかった

料理人として腕を磨き一人前になること、そして自分の店を持ちたいという思いは、この道を目指す多くの人が描く夢でもある。しかし、実際にオーナーとなると右腕となる人材の育成や店のプロデュース、エリアのマーケティングなど職人以外の力量も当然のことながら求められる。
今回、Yさんの貴重な経験を伺い、常に情報収集しながら時代の風を読むこと、またそれを自分に取り込み柔軟に対応していくことの大切さを痛感した。