
大きなピンチを乗り越えるたびに、さらに大きく成長
──人生の岐路において、人との出会いは大きいですね。一瀬さんの人生の中で最大のピンチといえば、なんでしょうか?
人生のターニングポイントはいくつかあるけれど、最初のピンチは1985年に有限会社くにを設立し、浅草周辺に4店舗の直営店を展開していたころです。
矢継ぎ早やに出店を増やしたために人手不足に陥ったんです。「辞められたら困る」と思って従業員を叱れない時期が続きました。
──その頃も飲食業界では人手不足だったんですね。
スタッフをきちんと指導もできない。そんな時に女房が亡くなったことも大きかった。赤字は膨らむばかり。女房が遺してくれたお金から従業員の給料を支払っていました。
で、くるわけです。エックスデーが。ある時、税理士さんから「本当にもうないです。来月、資金が底をつきます」といわれて、ハッと我に返りました。
山王ホテルにいたころは、5本の指に入るコックをめざして頑張っていたのに、「キッチンくに」を立ち上げ、レストランオーナーになったことで、私は安心してしまい、夢を語れない社長になっていました。
──それでどう乗り越えたのでしょうか?
「従業員の給料カットもありうる。辞めたい人は辞めてもらっていい」。従業員に何も言えなかった不甲斐ない社長でしたが、ここで腹が決まりました。そして誰も辞めなかったんです。
あらゆる無駄を省き、従業員の不始末もしっかり指導できるようになってから、店は軌道修正され、黒字に変わっていきました。「夢も語れない、優柔不断な社長にはついてこない」と悟りましたね。
──人を育成するのはむずかしいですね。
そうですね。人を育成し、成長させるのはむずかしいものです。だから当社では、経験未熟なスタッフが、一流の料理人と同じように調理ができるようにオリジナルの業務調理器具を整え、マニュアル化してFC展開で成長していこうと考えました。
おいしいステーキをリーズナブルにおおぜいのお客様に食べていただく近道です。しかしまたもピンチがくるんです。それが2001年のBSE騒動(※)ですね。次は売るべき肉がないという状況です。
──なるほど。BSE騒動は、飲食業界にも家庭の食卓にも大きな影響でした。
2009年には、残念なことにO-157による食中毒も発生させてしまいました。当社の最大の危機でした。
なにより掛け売りではなく、現金で取引してほしいという牛肉の取引先が増え、肉屋さんが肉を卸してくれなくなりました。
──それでは資金繰りも大変でしょう。
事業にとってお金は血液のようなものです。売り上げが下がり、私が直談判で個人に出資を募り、500万円ずつかき集めました。
「こんなことで潰すわけにいかない」「へこたれない…」。ネバーギブアップという言葉があるでしょ。自分に何度もそう言い聞かせました。
──出資するほうも覚悟がいりますね。
そうです。今から考えるとよく出してくれましたよね。でも出してくれたんですよ。そして牛肉の取引先の中から、「掛け売りでいいですよ、お肉を納品しましょう」と言ってくださるところも出てきました。
──あきらめない心が大事ですね。
母の教えに「枯れた木に水をやる人はいない」という言葉があります。ぼくは母一人子一人でね。幼いころはアパートでの貧しい暮らしでした。
でもね、そんなときでも母は「毅然たる態度でいなきゃだめだよ。『枯れた木に水をやる人はいないよ』」と。
──なるほど。お母さまの教えも深いです。
一回会社を潰すと、人はそれに慣れてしまう。また同じことをしてしまう。ピンチを乗り切るには、何がなんでも会社を立て直すという気持ちだけです。
ピンチからの脱出は、強い気持ちでポジティブな精神に切り替えること
──トップが決断するときは、毅然な態度でポジティブに行動することが大事なんですね。
危機的な状況に陥ると、人は最悪の事態を考え、もっともっとピンチになることを予測したくなるものです。どんどん辛くなり、その状況に溺れそうになります。
そんな時でも「どうやったら、ここから脱することができるのか」。気持ちを切り替えて考え始めることが大切です。自分の思考をポジティブに切り替えることです。
──それができればと思うのですが…
例えばこの前も、スタッフから
「出店計画について、11月、12月は飲食業界はどこも働き手不足で、人材の確保が間に合いません。出店は見送りましょう」と。
たやすい方向に舵をきるのは簡単です。しかし、そこでも私は考えました。
「よしっ、奥の手を使おうと」。
──奥の手とは、なんでしょう??
各店舗にかかげた初任給50万円のスタッフ募集広告ですよ。
──あっ、見ました!初任給50万円で募集とは、びっくりしました。
でしょう。効果はバツグン。530人の応募がきました。いい人がきてますよ~。初任給50万円は禁じ手なので、そうそうできませんが。
ほかにも「履歴書不要。一瀬社長の話を気軽に聞きに来ませんか」というフレーズで、会社見学会を行ったところ、130~140人きました。これは今後も続けようと思います。
──なるほど。まずは案を出してみることですね。
知恵を出せば、困難なときでも打開策がでてくるものです。
僕なんか惚れっぽいから、応募者と話してると、すぐに採用したくなっちゃうからね。気を付けないと。
(一同:爆笑)
編集後記
いつも周囲に笑いと活力を与えてくれる一瀬さん。取材の数日前にも、1日で1,000食以上のステーキの提供をめざすギネス世界記録挑戦イベントを開催。
『レストランにて24時間で販売されたビーフステーキ最多食数』で1734食を販売し、ギネス世界記録を達成しました。
社長としての最も重要な仕事は、社員に自身の言葉を伝え、社員の考え方を理解して共有することとし、そんな思いから1997年に創刊した社内報は、2019年1月で261号に。
その中には、これまでの苦難の連続とそれをどう乗り切ってきたのかが、率直な言葉でつぶさに記されています。
何度もピンチをチャンスに変えてきた一瀬さんの底力は、その裏表のない正直さにあると取材を終えて感じました。
一代でグローバル企業を築き上げた一瀬さんの今後にまだまだ目が離せません。
※BSE騒動=2001年9月、牛海綿状脳症 (BSE) の疑いがある牛を日本で初めて発見。BSEは、ヒトへの感染の可能性もあるとされ社会問題になった
社内報 | https://www.pepper-fs.co.jp/corpinfo/newsletter.php 社内報には、自身を振り返る自伝も。修業時代のやんちゃ話から、若き社長の夢や展望、淡い恋の話まで満載です。 |
取材・画像協力 | 株式会社ペッパーフードサービス |
CEO PROFILE
一瀬 邦夫(Kunio Ichinose)
株式会社ペッパーフードサービス代表取締役社長CEO1942年 静岡生まれ。幼少から東京・墨田区で育つ
1960年 高校卒業後、レストラン勤務を経て、名門「山王ホテル」に勤務
1970年 独立し「キッチンくに」を開店
1985年 「有限会社くに」を設立。その後4店舗の直営店を展開<トップの決断 その1>
急な店舗展開で社員が定着しない
従業員を叱れない社長から脱却し黒字に転換1994年 低価格ステーキ「ペッパーランチ」1号店出店。FC展開へ
1995年 「株式会社ペッパーフードサービス」に組織変更
1997年 創業28周年記念大会開催・社内報創刊
2001年 BSE騒動による風評被害
2003年 海外1号店を韓国・明洞に出店。以後、海外で出店展開
2006年 64歳で東証マザーズ上場
2009年 「ペッパーランチ」でO-157発生<トップの決断 その2>
売上が急落。直談判で個人に出資を募る。従業員一丸となって危機を回避2013年 ステーキハウス「いきなり!ステーキ」1号店を出店し話題に
2017年 5月に東証二部へ、8月に東証一部上場へ
2018年 76歳で米国のナスダック株式市場に上場
2018年12月現在:国内558店舗、海外325店舗
<インタビュー:藪ノ 賢次・半村 幹雄、記事作成:杉谷 淳子、撮影:一井 りょう>
1 2