店頭で生食パンを手に阪上氏が立っている写真

阪上 雄司(さかがみ ゆうじ)氏/高級「生」食パン専門店 乃が美 代表取締役社長
1968年、兵庫県生まれ。高校を卒業後、株式会社ダイエーに入社。23歳・24歳の時、全国トップの売り上げを2年連続達成。その後、自身で飲食店を立ち上げるために退職。居酒屋をFCで2店舗運営するほか、オリジナルブランド、焼肉バイキングレストラン、携帯電話販売店を運営する。BSE問題、リーマンショックのあおりを受け、流行に左右されず老若男女に愛される食品を作りたいと一念発起。2013年、“生”食パンの開発に成功し、高級「生」食パン専門店 乃が美を創業。2019年4月現在、全国46都道府県125店舗以上を展開中。

2013年に創業した高級「生」食パン専門店 乃が美
前代未聞の柔らかさと、今までの食パンにはなかった甘みが口コミなどで瞬く間に広がり、食パンブームの先駆けになりました。
生みの親である、高級「生」食パン専門店 乃が美 代表取締役社長 阪上雄司氏に誕生秘話や今後の「乃が美」の展望についてお伺いしました。

阪上さんが描いたご自身のクロニクル(年代記)も記事の最後にあります!

幼少期から波乱万丈の人生。それでも父が好きだった

──阪上さんはどんな幼少期をすごされたんですか?
父は家業である米屋を継がずに、機械関係の事業をしていました。一時期は景気も良かったので、毎晩のように外食。レストランに入っては「なんでも好きなもの頼み!」と言われました。でも、私は「ほんまにこんなお金使ってて大丈夫なんやろか?」と子どもながらに家の懐事情を心配していたのです。

──豪快なお父様だったんですね!
そうなんです。だから、心配だったんです。そして、その予感はみごと的中。事業は失敗し、私が小学校6年生の時に会社をたたみ、自己破産しました。その時に私は、大きくなったら社長になって、父を助けてあげたいと思いました。

──でも、もっと子どもらしい夢ってなかったんですか?
ありましたよ。純粋に野球選手になりたいとも思っていました。高校卒業するまでずっと野球をしてましたし。それも父が野球が好きだったから、喜ばせたくて始めたんですけどね。

──高校は、兵庫県の野球の名門校に進学されたんですね。
そうです。何度も甲子園に出場経験がある県内屈指の強豪校でした。私は1年生のときからレギュラーだったんですが、途中で監督が代わり、関係性を築くのになかなか溝が埋まらず悩む日々が続きました。

──卒業後の進学先はトントン拍子に決まったのですか?
残念ながらプロ入りはできなかったのですが、社会人野球チームがある企業への就職が決まりました。しかしそのチームが廃部になることが決まり、就職も白紙になったんです。
でも、野球は続けたかったので、大学に進学したいと父に頼みました。でも「ごめんな」と。家にはもう進学に必要なお金が本当になかったのです。いつも豪快な父ですが、あんなに申し訳なさそうな顔を見たのは初めてでした。

──就職先はどのように決められたんでしょうか?
高校の進学指導部にくる求人票の中から「株式会社ダイエー」を選択しました。配属先は「ダイエー芦屋店」の惣菜部門。しかし、包丁すら握ったことがない、スタートでした。

阪上氏がオフィスで両手を広げてインタビューにこたえている写真

──不安な気持ちはなかったのでしょうか?
もちろんありましたよ。でも私、なぜか人には恵まれていたんです。一緒に働くスタッフの中にはお母さんのようなパートさんが多く、とてもかわいがってもらっていました。

──どんな仕事をされたんですか?
パートさん達と一緒にいろんな仕掛けを考えました。たとえば、とんかつを入れた変わりダネ巻き寿司を考案したり、アイデアを出すのが楽しかったです。
そんな時、上司が休職することになり、私が責任者代理として抜擢されました。

──チャンス到来ですね!
その間に私の考えた商品が続々とヒットし、ダイエー史上初の高い利益率を叩き出したんです。約300店舗ある中で売上トップ店となりました。それも2年連続!

──それはすごいですね!何歳の時ですか?
23歳と24歳の時でした。会社の中でも史上最速だったんです。
表彰式があって、当時の会長、伝説の中内 㓛(なかうち いさお)氏と壇上で対面しました。スポットライトを浴びた中内会長を見て、「うわー何やろ、このオーラは!!!」と感じました。
当時の流通業界のヒーローが私の目の前にいるって、「夢か?幻か?」と思うほど、衝撃的な出来事でしたね。

──じゃあ、これをきっかけにどんどんとキャリアアップしたいと?
いいえ、それが逆なんです。中内会長に握手してもらって「おめでとう」と声をかけられた時に、うれしかったのは確かなのですが、なんかちがうなって思いました。
私、この会社にいてたら一生、この人を超えることができない。私も会長と一緒の立場、“表彰する側”に立ちたいと思ったんです。

──え!?どういうことですか???
私の父だって、小さいながらも一代で事業を立ち上げた。中内会長も、一代でダイエーを築き上げた。でも、借金まみれの父親と世界で活躍する中内会長、この違いってなんだろう・・・と思いました。
もう、実家の貧乏に嫌気がさしていたんです。
あと、当時は“出世コース=大卒以上”という考え方でした。そして、私は高卒。この先いくらダイエーで頑張っても、アタマは決まっている。だったら、自分で起業しようと思い、退職することに。

いざ、起業!飲食店のオーナーになり、ヒット!

──ダイエーを退職後は?
まずは、トラックの運転手をして資金を作ることからはじめました。
そして、フランチャイズだけど念願の飲食店(居酒屋)のオーナーになりました。でも、オリジナルブランドも作りたくて立ち上げたのが、焼肉バイキングレストランでした。
当時は焼肉のバイキングレストランは画期的で、たくさんのお客さんが来てくれました。
お子さんの美味しそうにお肉をほおばる笑顔がたまらなくうれしかったです。

阪上氏の笑顔のアップ写真

──居酒屋と、焼肉バイキングレストランは成功されたんですね。
飲食店以外に、携帯電話ショップもしていました。全部で約60店舗を展開。とても忙しかったけれど、大変さが心地よかったんです。
しかし、2000年代はじめにBSE問題のあおりを受け、2008年にはリーマンショックにも巻き込まれました。
どんな事業にも波があって、流行りもあったりする。こんなことに負けない事業って、なにかないか探しました。

──なにか、アテはあったんですか?
なかったんですが、ふとテレビで食リポをやってるのを観て思ったんです。みんな第一声は「やわらかーい!」「あまーい!」のどっちか(笑)。
日本人って柔らかいものと甘いものが好きで、五感で感じやすいんやなぁと。だから、なにか甘くて柔らかいものはないかなぁと漠然と考えていました。

──え?でもまだ食パンには結びつきませんね(笑)。
ええ。ある時、とあるきっかけで、老人ホームに慰問に行くことがありました。
老人ホームに入居されている方の日々の楽しみは“食べること”と“笑うこと”だそうです。
そのわりには、美味しそうな顔をして食べてないなぁと思いました。
特に食パンは、食べ残しが目立っていました。「なんでなんですか?」と施設の方に尋ねると、パンの耳が固くて食べられないと。
だったら、誰もが美味しく感じる食パンを私が作ればいいやん!と思い、開発にとりかかることにしました。

レギュラー&ハーフサイズの生食パンの画像

<写真提供:乃が美>

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