昭和文芸を代表する作家「立原正秋」の言葉で志した料理人の道。

お話によるとご主人の出身は、摘草料理で有名な「美山荘」だとか。

中東氏:その通りです。私の両親が「美山荘」(※注)の二代目にあたりまして、その次男坊として私は育ちました。「美山荘」は、もともとは峰定寺(ぶじょうじ)というお寺の宿坊でして、冬は雪が多くて大変な場所なんですが、夏は涼しいということで、避暑地として訪れるお客様がたくさんいらっしゃいました。そこで料理をお出しするわけですが、職人さんが特にいたわけではありません。父と母、そして兄(中東吉次氏)と私の家族で料理をお作りして、お出ししていました。とりわけ母が料理上手だったもので、味付けは母の担当です。川で取れた魚を父がさばき、山菜を使った料理を母が作るといった料理旅館を営んでおりました。

※注「美山荘」
京都市左京区花背にある寺院「峰定寺」の信者のために宿坊として建てたのが始まり。現在では、「摘草料理」を提供する料理旅館として知られる。

「美山荘」には、昭和の文化人も数多く訪れたと聞いていますが。

中東氏:そうですね。若い方はご存じかどうか分かりませんが、立原正秋先生(※注1)や白洲正子さん(※注2)に、たびたびお越しいただきました。「美山荘」が文化人のみなさんに好んでいただけたのは、兄の力によるところが大きかったと思います。当時は未舗装の道路しか通っていないような山奥でしたから、本当に何もない場所です。避暑地として人気の夏場は忙しいのですが、それだけでは食べていけません。ですので、父は林業もしながら自給自足の生活をしていました。

そんな中、兄が25歳ぐらいの時、私が11歳の時ですかね、美山にある山菜や山草を使ったものを「摘草料理」としてお出しするようになったんです。今で言う地産地消のようなものです。兄は料理にも懐石の要素を取り入れたり、外に出てお茶を習ったりしていました。兄は兄なりに創意工夫しながら、どうすればお客様をもてなせるのかを考えたのだと思います。それが文化人の方には目新しく見えたんでしょうね。

また、立派な器を買うようなお金もありませんでしたから、杉板を焼いたものを使ったり、青竹を器にしたりしていました。白洲正子さんは、そうした風情を好んでくださったお一人です。ある時、私に「河原に行って石を拾ってきなさい」とおっしゃって、その石を箸置きにして使ったりもしました。そのように家業を手伝いながら過ごした少年期です。

※注1:立原正秋
昭和に活躍した小説家・随筆家・詩人。代表作に『冬の旅』『残りの雪』『冬のかたみに』など。美食家としても有名。

※注2:白洲正子
古典文学、工芸、骨董、自然などについて多数の作品を執筆した随筆家。夫は、吉田茂の側近として活躍した実業家の白洲次郎。

子どものころから料理は身近な存在だったんですね。本格的に料理人を志したのは、いつごろですか?

中東氏:たしか私が高校を卒業して半年ほど経った時でした、立原先生から電話があって「今から行きたいのだが、料理を食べさせてくれるかね」という連絡をいただきました。その日はちょうど兄が外出していたもので、「弟の私が作る料理でもよろしいでしょうか」とお話をしたところ「構わない」と先生がおっしゃっり、夕方ご来店されました。

高校を卒業してからも兄と一緒に調理場に入っていましたし、煮炊きの基本は母から教わっていましたから、何とか1人で料理をお作りして先生に食べていただいたんです。そうしたら、食事の後に先生が座敷で私をお呼びになったんです。何を言われるのか心配しながら、恐る恐る座敷に行くと、「この料理は君が1人でやったのかね。おいしかったよ」とおっしゃって、当時の金額で1万円を包んで手渡してくださったんです。その時に思いましたね。「これはもう料理人になるしかないな」と(笑)。

「美山荘」でのいろんな経験が、ご主人の料理人としてのルーツなんですね。

中東氏:立原先生のような方から認めていただけたことが、1つのきっかけと言えばきっかけでした。それからも家業を手伝いながら料理を学ぶわけですが、そのどれもが山のものを使った料理です。「美山荘」では、海の幸は使いません。父が買ってくる卵を使った料理や鯉の刺身など、山の幸を使った料理ばかりです。他には何もありませんから、とにかくいろんな工夫を自分たちで考えて形にしていきました。

そうした素朴で少し独創性があるものを提供しておりましたから、美山に行けばちょっと変わった料理が食べられるということで、いろんな方に足を運んでいただけたのだと思います。

土鍋で炊いた米の味に、自分が開くべき店の情景が見えた。

「草喰なかひがし」の創業は平成9年ですが、独立までの経緯を教えてください。

中東氏:「美山荘」を手伝っていた20歳の頃から、数人の料理人と器業者の仲間と一緒に「企画倶楽部」という会合を開いていました。これは、仲間と一緒に料理や器について定期的に勉強会を実施するというもので、意見交換した中から生まれた器を展示会で販売したりしていました。意外かも知れませんが、料理人と器の作り手の関係というのは、あまり接点がないんです。間に問屋さんをはさみますからね。だから料理人が「この器のもう少し小さめが欲しいな」と思っていても、その意見がなかなか作り手に伝わりません。そういう悩みを解消するためにも、企画倶楽部を作りました。そのメンバーの1人に、信楽の陶芸家の中川さん(※注3)という方がいらっしゃるのですが、彼の影響が私の独立に大きく影響しています。

平成5年に、東北地方が記録的な冷夏になって、深刻な米不足現象が起こったのを覚えていらっしゃるでしょうか。いたるところで国産米の買い占めがあり、緊急輸入米が市場に出回った出来事です。どこに行っても国産米が手に入らなくて、「来年はちゃんと米が手に入るんだろうか」と、料理人の誰もが不安になった時期でもありました。

今まで当たり前のように食べていた米が手に入らない状況の中、中川さんは一般家庭で少しでもおいしくご飯を食べてもらうために、米炊き様の土鍋を製作されたんです。その土鍋で炊いたご飯を食べさせてもらった時、「こんなにおいしい米の味を、なぜ今まで忘れていたのか」とびっくりしました。「なんと馬鹿なことをしてきたんだろう」と思いましたね。それと同時に、一瞬にして私がやるべき店の情景が鮮明に頭に浮かんできたんです。

※注3:中川一辺陶
滋賀県信楽の「雲井窯(くもいがま)」の九代目当主。すっぽん料理店の土鍋の研究、老舗料亭の御飯炊き土釜、竈(おくどさん)の製作で独自の手法を確立する。http://www.kumoigama.co.jp/

土鍋で炊いた米は、そんなにおいしかったのですか?

中東氏:その場にいた全員が「この米があれば、他には何もいらない。漬物とみそ汁があれば、一生なにもいらない」と口をそろえて言ったほどです。恥ずかしい話ですが、便利さとの引き換えに、私たちは米のおいしさを見失っていました。子どもの頃、「美山荘」でも他の家庭でも、おくどさんで米を炊くのが当たり前でした。でも近代化が進む中で、炊飯器で簡単に米が炊けるようになり、本来の味を忘れていたんですね。

近代的な厨房と調理器具は衛生的で、それまで苦労していたおくどさんの火の守もしなくて構いません。「美山荘」にステンレス製の厨房を導入し、炊飯器を採用した時は、「便利な世の中になったなぁ」と喜んだものでした。ところが、ご飯の良し悪しまでは気づかなかったんですね。ところが、中川さんが作った土鍋で炊く米を食べた時、子どもの頃に食べていた味を思い出しました。「この味を基本に、日本料理の良さを伝えていく店を作ろう」。その想いを形にしたのが「草喰なかひがし」に他なりません。

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