
最高級ホテルという環境で菓子職人としての多角的に濃密な経験値を得た。
ご実家がパティスリーを営まれていたとお聞きしました。
吉田氏:はい、静岡にあるお菓子屋で生まれ育ちました。兄が2人いるのですが、それぞれ薬科大学と美大に行ってしまったから、いずれ自分が菓子屋をやるしかないんだろうな、という雰囲気が常にありました。
では、かなり早い時期から修業を開始されたのですね?
吉田氏:いえ、まったく(笑)。
専門学校に入るまでは家で自分でお菓子を作ったりとか、そんなこと全くしませんでした。学校に入ってはじめてモンブランが栗だってわかったり、かなり意識は低めだったと思います。卒業してから青山にあるお店で働きましたが、それもなんとなく青山で働いたら楽しいかなと思ったからで、特段に高いモチベーションがあったわけではありません。
どのタイミングで本格的にパティシエとして歩み始めたのですか?
吉田氏:青山のパティスリーで働いたあとに、とりあえず「日本一」を目指そうと思って「パークハイアット東京」に入りました。すると、そこで出会った同僚たちに大きな刺激を受けました。早稲田大学や慶応大学を出た優秀な人たちもたくさんいて、彼らと日々過ごすうちに「お菓子屋」という枠から外れて、将来どういうことをやっていきたいのか、誰かをハッピーにさせるために何ができるのかなど、真剣に考えるようになりました。
そういうことを意識し始めてから、自然と自分の中のスイッチが入りました。
なぜ「日本一」になろうと?
吉田氏::じつは、「パークハイアット東京」に入る前に、半年ほどフランスに行ったんです。当時は、まだピエール・エルメ(Pierre Hermé)もいなくて、フランスのお菓子はただ単純に砂糖とバターが大量に入っているだけだなという印象でした。だから、フランスにあるフランス菓子に特に魅力を感じられなかったんです。もちろん、自分の舌がまだローカライズされていなかったというのもあると思いますが。
それで、「まずは日本一」です。
ホテルでの経験は、どういったキャリアになりましたか?
吉田氏:お菓子職人として、とても貴重なキャリアになりました。というのも、パティスリー(お菓子屋)では決してできない経験ができるからです。
ホテルでは、お皿に乗せて提供するアシエット・デセールからウェディング・ケーキ、ブティック、デリカッセンなど、いろんなシーンの中でいろんな方法でお菓子が提供されます。そして、ものによっては、それを実際に食べているお客様の姿を見ることができます。これは、パティスリーではできない面白くて貴重な経験になったと思います。
独立した環境に疑問を抱き、戦略的に進む意識を持つようになる。
2005年にナチュレ・ナチュールをオープンさせましたね。
吉田氏:はい、静岡県でオープンさせました。本当はこのタイミングでフランスに行きたいという気持ちもあったんですが、実家の区画整理という諸々の事情もあってこうなるに至りました。
ただ、ぼくの中では「お店を出せる」というポジティブな気持ちもあったんですが、正直に言うと「都落ち」したという気持ちがあったのも確かです。
「都落ち」?
吉田氏:はい、やはり東京都内に比べるとどうしてもお菓子を消費する人の感度も決して高くはないし、自分がどれだけ力を注いで作っても、それをどこまで理解してもらえるのかもわかりませんでした。
ただ、一方で、静岡には苺やマンゴーなど素晴らしい食材がたくさんありましたので、良い環境でもありました。
お店の経営はいかがでしたか?
吉田氏:1年目の売上は良いとは言えませんでした。良いものを一生懸命作れば売れていくものだと思っていたのですが、そのとき、「売れるためのもの」を作って、それが売れるべくして売れていくものなのだと身をもって知りました。もちろん、悪く言うわけではないのですが、都会で受け入れられるものと、地方で受け入れられるものはまったく違ったんです。
ロールケーキやシュークリームなど、日頃みんなが手頃に気軽に買うものこそが求められていて、ぼくが良いと思うものをいくらがんばって作っても、それはなかなか受け入れられませんでした。
その後、どうされましたか?
吉田氏:「売れるためのもの」を作る、というのはどうしても自分のやりたいことではなかったので、「自分が良いと思うもの」を売れるようにするにはどうすればいいのかを考えました。そこで、単純ですが、シンプルに自分の知名度を上げればいいと思い、「テレビチャンピオン」というTV番組のコンテストに出場して、2度優勝しました。なんと言ってもモノが売れなければ仕方がないですからね。
「テレビチャンピオン」優勝の影響は?
吉田氏:正直、効果は絶大でした。そこから世界がまったく違ってきて、ようやく「自分が良いと思うもの」を受け入れてもらえる体制が整いました。それで、しばらくそのお店を続けたのち、さらに自分のお菓子を追求しようと、フランス行きを決意しました。