大阪モノレール「少路駅」から住宅地を通り、10分ほど歩いた場所に「とよなか桜会」はあります。エレベーターの扉が開くと、まず目に飛び込んでくるのは個性的な店舗の外観。店の間取り図をそのままデザインしたユニークな扉を開き、ふんわりと芳醇な香りが漂う店内へ足を進めていきます。黒を基調としたシックなカウンター席と、朱色のテーブルが印象的な個室から造られた客席。馴染みやすい気安さがありながらも、どこか非日常を感じさせる絶妙な一体感のある店内は、初めて訪れた方も肩肘を張らずに料理を楽しめる、居心地の良さを感じさせてくれます。
この店を率いるのは、「懐石料理 桝田」店主の桝田氏に師事し、「なだ万」で腕を磨いた実力派の料理人、満田健児氏。同氏が生み出すのは、日本料理の根本をリスペクトしながら、自由な発想の中で新たな手法を用いて表現された料理の数々。他にはない手法、革新的な一皿を生み出してきた根源はどこにあるのか。気さくで、懐の深さを感じるお人柄の満田氏に話を伺いました。

インタビューのポイント

point.1 代用するのではなく、素材そのものと真剣に向き合う
point.2 悩みながらも、結局は自分が美味いと信じられるものを貫く
point.3 自ら出会いを求め、より多くの人と直接話すことで成長できる

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料理人になるつもりはまったくなかった

どのような幼少期を過ごされたんですか?

満田氏:
とにかく食べられるものが少ない、極端な偏食児でしたね。学校の給食も食べられずに掃除の時間まで残されるような。まず肉類全般がダメで。家で母親が作る料理もほとんど食べることができず、小学校4年生の頃には自分が食べる分を自ら調理するようになりました。

最初は素材を切って炒める程度でしたが、慣れてくると焼きそばやオムライスなどバリエーションが広がって。そうすると、水を入れるところを出汁にしてみたらどうか、など工夫を凝らすようになりました。味を覚えるのが得意だったようで、外食した先の味を家で再現してみたりもしましたね。あくまで自分が食べられるものを作るのが目的だったので、料理人になりたいとか、そういう気持ちは一切なかったです。ただ、姉が友達を連れてきた時に料理を出すと喜んでもらえたりしたことは素直に嬉しい、と感じていました。

 

高校卒業後に辻調理師専門学校へ入学されていますが、きっかけは?

満田氏:
友人が体験入学に行くというので、大阪まで一緒に行って参加しました。そこで住み込みで働きながら学費をまかなって学校へ通える制度を知って。大学へ進学するつもりはなかったし、この制度を利用すれば誰に世話をかけることなく、自分ひとりで生きていけるなと思いました。親に相談することもなく、ひとりで考えてすべてを決めましたね。

 

どのような専門学校時代でしたか?

満田氏:
バイトに明け暮れていました。学校の授業は疲れを癒やすため、一番後ろで寝てばっかりでしたね。居酒屋で働いていたのですが、自分と同じ制度を利用している辻調の学生が7~8人ほどいました。そのうち1~2人だけが厨房に入ることができて、それ以外はホールに配属されて。私自身も最初はホールスタートだったので羨ましかったですね。ただ要領が良かったようで、その中でもどんどん出世していきました。300席ほどある大きな店だったんですが、ドリンク担当になってひとりでひたすらドリンクを作っていたり。その次は来店されたお客さんをテーブルに割り振る係になって。すべての客席の空き状況を把握しなければならないポジションでしたが、それをこなしているうちに、「どうせ入口で立っているならレジもやってみろ」と言われて。社員でもないのに会計まで任されるようになりました。ただ立ってお金のやりとりをするだけなので、非常に楽でした。入社式の時には「態度が悪い、身だしなみを正せ」とひとりだけ怒られた自分が、最後には「うちに就職しろ」とお誘いいただくまでになりました(笑)

 

 

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