キッチンで撮影したコラグレコ氏

祖母から学んだ愛情表現としての料理

ご出身はアルゼンチンなのですね。

コラグレコ氏:はい、私が生まれたのは、アルゼンチン、ブエノスアイレス州の州都、ラ・プラタ(La Plata)という街です。ラ・プラタ川という広大な川のそばで、子供の頃は魚を捕まえたり泳いだりしていました。そのせいか、今でも水辺が大好きで、若い頃からホリデーになると水辺に行っています。山も好きですが、自分の心がいつも水を求めていると感じるのです。

料理好きになったきっかけは、子ども時代にあったとお聞きしました。

コラグレコ氏:はい、祖母の影響が大きいと思います。祖父母は、私の生まれた街から100キロほど離れた山あいの田舎に住んでいました。誕生日や新年などには大勢の親戚が祖父母の家に集まるのですが、祖母は私たちの滞在中ずっと、家族全員のすべての食事を手作りしていました。祖母はとても愛情が強い女性で、愛情を分けあうのが好きでした。料理はそのための方法だったのだと思います。

ただ料理を作る、というのではなくて、訪れた子ども達は、年齢も、起きる時間も、好みも違います。それぞれの時間に合わせてその人の好物を作る、というのが祖母のやり方でした。

また、祖父が庭の菜園でトマトやプラムを育てていたので、木からもぎ取ったトマトやプラムをとって食べたり、ソースやジャムを作ったりしていました。旬の間に収穫して、煮込んで一年分を保存して置くのです。

祖母はスペインのビルバオ出身で、2歳の時にアルゼンチンに移住しています。祖父はイタリア人だったので、メニューはイタリア料理が中心でした。残念ながら祖母は私が14歳の時に亡くなりましたので、一緒に料理をすることはできませんでしたが、トマトソースのラビオリやダンプリングなどの味はよく覚えています。今でもその幸せな記憶が残っているから、今も5歳の息子に朝食を作るのが大好きです。

幸せな味の記憶は、息子さんにも受け継がれているのですね。すぐ料理の道に入られたのですか?

コラグレコ氏:プロとして料理を始めたのは1998年、20歳の時のことです。高校での専攻は文学で、アルゼンチンの大学では、2年間経済を学んでいました。父が会計士だったので、後を継がなくてはならなかったのですが、会計学に情熱を見つけられなかったのです。
23歳の時フランス南西部、ラ・ロシェルの料理学校に行って学ぶことになりました。3年間だけフランスにいるつもりだったのですが、これが私の人生を大きく変えることになります。それから18年、今に至るまでフランスにいることになろうとは、夢にも思いませんでした。

料理をするコラグレコ氏

ロワゾーシェフの味わいに魅せられて

一体、何が転機でフランスに残ることになったのですか?

コラグレコ氏:料理学校に通い始めて1年が過ぎた頃、「ラ・コート・ドール(La Cote d’Or)」のベルナール・ロワゾーシェフの元で、4ヶ月の研修をしました。研修が終わる日の朝、ベルナールに、「この後どうしたい?」と聞かれました。「料理学校に戻って、勉強を続けたい」と伝えると、ランチサービスの前に、「実は仕事があるのだけれど」と打診されたのです。そこで、レストランに残ることになりました。そして、ベルナールの最期の日まで、働くことになったのです。

ベルナールは、ソースのプロでした。クラッシックなソースに、野菜のピュレを加えてアクセント使い始めたのは、彼が最初です。パセリやニンニク、甘みを加えたい時は人参やビーツなどをピュレにして加えるというのは、とても新鮮な発見でした。ブレス鶏、フォアグラなどクラッシックな食材を使うのですが、このアクセントのおかげで、伝統的なソースよりもフレッシュな味わいになり、私はすっかりその味わいに魅せられたのです。

レストラン以外でも、私は毎日ベルナールと彼の家族のために料理を作っていたので、彼も彼の家族も、とても身近な存在でした。今でも、彼がとてもシンプルだけれど完成度の高いものが好きだったことを思い出します。例えば、アスパラガスを茹でて、シンプルにオランデーズソースを添えたような料理です。

とてもベルナール・ロワゾーシェフと近しい間柄だったのですね。亡くなる直前、彼はどんな様子だったのですか?

コラグレコ氏:ゴー・エ・ミヨの点数が下がり、自殺の直前は、星を失うかもしれないというコメントに対してすごくナーバスになっていたのを思い出します。イライラして、不安そうに見えました。スタッフにモチベーションを与えようと頑張っていましたが、何が良くて何が良くないのか、彼自身でも混乱しているように見えました。
今考えると、彼は「常に勝つ偉大なシェフ」、という虚像を作り上げてしまっていたのだと思います。まるで役者のように、別のキャラクターを作ってしまい、それに縛られてしまっていたのではないかと感じるのです。
彼の死は、とてもショッキングなことでした。悲しすぎて、彼の死から10年間、私はレストランのあったソリュに足を踏み入れることができなかったほどです。

彼の死は日本でも大きく報道されました、本当に、突然でショッキングな出来事でしたね。マウロシェフにとっても辛い経験だったと思いますが、逆に、彼から学んだことも、多かったのではないですか?

コラグレコ氏:私にとって初めて働いたファインダイニングのキッチンでしたので、彼から料理の基礎を含め、多くのことを学びました。人としても彼のことが大好きでしたし、今もキッチンで楽しそうにアスパラガスの皮を剥いていた彼の姿をありありと思い出します。また、とても辛い経験ではありましたが、彼の死を通して、トップになっても、それがいつまで続くかわからない、人生は常に勝ち続けられるわけではない、栄光というものがとても脆い、ということを、身にしみて感じました。

ミシュラン二つ星を獲得し、今年は世界のベストレストランでも3位にランクインしましたね。ご自身も栄光の中に身を置くようになって、心がけていることはなんですか?

コラグレコ氏:虚像を作る代わりに、自分自身でいるのが大切なのだと思います。料理していること自体に、幸せな気持ちを持っていること、ゲストに料理をすることが幸せと感じることが何よりも大切なのです。賞や名誉には感謝しますが、そのために働いてはいけないとも思います。自分が自分でなくなってしまうからです

私が幸せだと感じるのは、自分自身が毎日成長していると感じること、何か特別なものを作れているということ。ゲストがハッピーなら自分もハッピーだと感じる感覚、それが大切なのです。そう感じられなくなったら、辞める時だと思っています。

もちろん、疲れることも時にはありますが、 それはあくまでも身体的なもので、休みを取れば治ります。精神的な疲れというのはありません。
そういった意味でも、ベルナールは、身を以て一番大切なことを教えてくれた恩人でもあります。

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