
目次
「オーナーシェフになりたい」なんて考えたこともなかった
「ル・マンジュ・トゥー」をオープンされたのは1994年。最寄駅の大江戸線牛込神楽坂駅はまだできておらず、アクセスの良い立地とは言えなかったと思います。あえてこの場所に出店された理由は?
谷氏:たまたまなんですよ。ここはもともと、六本木「オー・シザーブル」時代にお世話になったお魚屋さんが経営していたお店でした。シェフを務めていた青山「サバス」が閉店し、僕は数名の仲間と一緒に「オー・シザーブル」に移ったのですが、連れて行けないスタッフのことが気になっていました。その受け皿になればと考えて物件を譲り受けることにしたんです。
「オー・シザーブル」を辞めるつもりはなく、「ル・マンジュ・トゥー」をオープンしてしばらくは全てをスタッフに任せていました。当時バブル景気は弾けていたものの、そこそこのお給料をいただいていましてね。本業の確定申告で計上して相殺できるくらいの赤字なら大丈夫だろう、なんて甘い考えでした。
当然、そんな心構えでレストランの経営が成り立つはずがありません。経営は火の車で、やはり自分が店に立たなければダメだということになったんです。そんな調子で開業し、強い志があったわけではありません。「オーナーシェフになりたい」なんて考えたこともなかったし、自分がなれるとは思わなかった。そもそも、料理人になったのも成り行きみたいなものでしたから。
そうだったんですね。現在の谷さんの姿からは想像できません。
谷氏:いや、もうひどいものでしたよ。高校は進学校でしたが、当時は学生運動が盛んでしょっちゅうブロックアウトされていたりしていて授業にならない。ノンポリだった僕はこれ幸いと、毎日麻雀ばかり。そんなときに、卒業後の進路について父に聞かれ、口からでまかせで「料理をやりたいです」と答えたのが運命の分かれ目でした。
谷家は代々軍人の家系で、父は20代で200人の部下を持つような元職業軍人。当時は上場企業の経営者をしていましたが、眼光鋭く、それはもう厳格。正座をして父の前に座り、「何をするんだ」と聞かれます。絶対的な存在である父に、「進路は何も考えていない」と言うのはあり得ない。困った。でもふと、友人の一人が「料理人になりたい」と言っていたのを思い出して、ぽろっと言ってしまった。
それを伝えた翌日には、父が通勤途中にあった服部学園のパンフレットをもらってきて、僕の前で開きながら「武士に二言はないな」とばかり「1年コースと2年コースがあるぞ」と。
少しでも長く学生のままでいたくて「2年でお願いします」と入学したのは栄養士科。でも、当時自分の中では調理師と栄養士の区別すらついていなかったんです。
24歳で渡仏するも、打ちのめされて帰国。大きな挫折感を抱いた
なんと(笑)。そんな谷さんが料理に目覚めたのは?
谷氏:少ししてから、栄養士科というのは料理人がいくところではない、と気づきました。クラスは女性ばっかり、授業の内容も栄養計算とか、思っていたことと違うしね。2週間で、辞めることを決めました。
すぐにいろいろと調べ直して、辻調理師学校に編入しようとしました。でも、不思議な縁でね、服部学園の仲の良かった助手の先生が六本木「イル・ド・フランス」を紹介してくれた。それが、人生で大きな影響を受けたアンドレ・パッション氏(※現在は代官山で「パッション」を運営)との出会いでした。
当時は東京でもフランス料理店は10軒あるかないかという時代。若者が足を踏み入れられるような場所ではありませんでしたから、調理場はもちろん客席のしつらいまで見るもの全てが新鮮で、給仕はダブルメートルの体制。フランス料理の世界観に魅了されました。遊びばっかりだった人間が、1日15時間労働、急転直下です。
その中で僕より8歳上の若きフランス人シェフのパッション氏の姿はとにかく格好良く、プロへの憧れを掻き立ててくれました。
おまけにパッション氏は凄く優しい方で、まだ日本語がたどたどしい時期だったのに、ことあるごとに「タニ、タニ」と声をかけてくれましてね。水が合ったこともあり、そのまま「イル・ド・フランス」に入りました。
彼が、「ル・マンがね」「ツール・ド・フランスのアルプス決戦で」とそのころの日本では滅多に聞けない話をしてくれるものですから、料理はもちろん歴史や文化、フランスの地方の話、言葉までフランスの全てが素晴らしく見えたものです。
「イル・ド・フランス」で6年半の間勤めた後、フランスへ。ところが、初めての渡仏では、打ちのめされてボロボロになってしまいましてね。
ボロボロに、ですか。
谷氏:はい。当時、店からは毎年1人ずつフランスに派遣されていました。そして24歳の時、当時二番手だった僕の番がやってきたのです。リヨンでの仕事先も決まっているという、その頃としてはこの上なく恵まれた状況での渡仏でした。
ところが、一度目の渡仏は、丸ゴケの2年間となります。2年勉強してきたはずのフランス語が入国審査で通じず、いきなりのパンチを食らってモチベーションダウン。
今思うと、すぐに地方都市であるリヨンに行っておけば良かったんですが、パリに行ってしまったんですよね。僕は、ミーハーな新宿っ子だったので、田舎に行くのもちょっと嫌だった、というのもあります(笑)。
でも、パリは特別なんですよね。パッション氏は気の良い田舎の人だったんだけど、パリゴー(パリ野郎)っていうのはまた全然違う気質だった。
一番安いアパートを探して、パリのモンマルトルにたどり着いたんだけど、当時は雰囲気も全然違っていた。アフリカとかアラブから来た外国人がとても多い。
土曜日の夜になると、太鼓をたたいたり、たき火している人たちがいたり、雨が降ると夜中に僕のアパートの廊下に浮浪者が寝てる。扉の前で寝てるから、怖くて出られないし、トイレにも行けない。地下鉄から家に帰る道で身の危険を感じることもあった。僕にとってのパリはそういうところでした。凱旋門とか、セーヌ川とか、そんなんじゃなくてね。
そんな雰囲気に呑み込まれて、気力もなくなっていってね。いよいよリヨンに行くというときに、地下鉄に乗り込む際に、2つ持っていた大きなバガージュ(カバン)の1つが改札を通らなかった。それで、プツンと、何もかも嫌になってしまった。「ああもう、いやだ!」と。
結局、リヨン行きの列車に乗らずに、アパートに戻っちゃった。日本で紹介していただいた、ソフィテルグループの統括総料理長だったマーク・アリックス氏にも来いよと言われていたんですが、そこに足を運ぶこともなく、何の連絡も無しの無断キャンセル。
すぐ帰国するわけにもいかず、パリの屋根裏部屋で暮らしながらロースト料理専門店やビストロでアルバイトをしましたが、何しろ言葉ができず、生活がままなりません。調理場では「タニ」という簡単な名前さえ覚えてもらえず、「サシミ」と呼ばれて、「ふざけんじゃない」と喧嘩するようなこともありました。
優しいパッション氏のもとで夢見たフランスは、一度目の渡仏では幻にしか思えませんでした。10年くらいは滞在するつもりで日本を発ったのに、結局、食いつなぎながら旅行したりしつつも、2年で尻尾を巻いて帰国。それまで味わったことのない挫折感を抱きました。ボロボロで、惨めなものです。だからこそ、あの70年代のフランスを駆け抜けた、斉須シェフ、田代シェフ、北島シェフなんかは、僕にとっては今でも憧れの存在です。