佐竹 伸彦(さたけ のぶひこ)氏/株式会社クラマ計画 代表取締役
1978年生まれ。洋服店を営む両親のもと、大阪市北区の天神橋筋商店街で育つ。15歳で初めてアメリカへ。以降、バックパッカーとしてひんぱんに海外に赴く。大阪府立大学で物理学を専攻、大学院を経て、大手総合電機メーカーに就職するも2年弱で退職し渡米。カリフォルニア州の和食レストランで修業を積み、帰国後の2009年、大衆居酒屋「ちゃぶ」出店。2012年「株式会社クラマ計画」設立。現在、大阪市内で10店舗を運営。
「あずき色のマーカス」「ジャックとマチルダ」「路地裏アバンギャルド」などインパクトある店名で大阪市・キタを中心に10店舗の居酒屋を展開し、そのほとんどが連日盛況。「組織的個人店」というコンセプトのもと、現場スタッフの小さなこだわりを存分に活かし、店ごとに出す料理もお酒もサービススタイルも違う―。
効率よりも、個と集団が生み出す「偶発性」を価値基準として経営を軌道に乗せ、今注目されているのが株式会社クラマ計画です。
何より異彩を放つのが、“非中央集権型”という組織のあり方。役職、ポストによる上下関係が一切なく、店長もエリアマネージャーも不在。すべてのメンバーが自由に意見交換する場所を設け、手を挙げた人が店を運営しています。
一般的なピラミッド型組織にこだわらない新しい仕組みで株式会社クラマ計画が躍進できたのは何故か?代表取締役の佐竹さんにインタビューしました。
佐竹さんが描いたご自身のクロニクル(年代記)も記事の最後にあります!
部長にならないと、やりたいことができない?
──佐竹さんは大学で物理学を専攻されて、大学院も卒業していらっしゃったんですよね。
そうなんです。何を思ったのか。今となってはほとんど役に立ってないんですが(笑)。
──物理はもともと好きだったんですか?
実験が好きだったんです。アインシュタインに憧れて、物理を勉強しようと。相対性理論とかよく分からない未知の世界って、なんだか面白そうだなと思ったのがきっかけです。
ただ、その頃から将来は自分で商売をしていくんじゃないかな~という感覚はなんとなく持っていました。
──佐竹さんのご両親は、天神橋筋商店街で洋服店を営まれているんですよね。
古くは船場で商売をやっていたようですが、祖父の代から天神橋筋商店街で洋服店をしていました。
ただ僕の両親は、大学を出て就職して欲しいという思いがあったようです。だから大学も通わせてもらったし、大手の総合電機メーカーにエンジニアとして就職したときも、喜んでいました。でも僕の中ではサラリーマンというのが性に合わないなと…。
──新卒で就職した総合電機メーカーではどのような仕事をされていたんですか?
会社の次世代の柱になるビジネスを発掘しようというプロジェクトの部署でした。
当時はICカード式の乗車券が登場した頃で、非接触のチップを使って、新しいビジネスに発展できないかな、みたいなのをやっていました。ガチガチの研究職ではなく、役割としてはプロジェクトマネジメントですね。
──すごくクリエイティブで面白そうに聞こえますが(笑)。
仕事の内容は面白かったです。ただ大きな組織のいろんなしがらみの中で調整をしていく流れに、あまり馴染めなかったというのがあって2年弱で退職しました。
──社員数が多ければ、組織もきっちりしていますよね。
決裁権を持って本当にしたいことができるのは部長クラスくらいからで、そうなると50歳を超えてしまいます。自分がずっとサラリーマン生活を続けて、部長クラスの立ち位置まで行くイメージができなかったですね。
バックパッカー経験が教えてくれた「常識は変わる」事実
──退職後は、アメリカに行ってらしたんですよね?
もともと海外志向というか、ひとりで世界中をぷらぷら歩いていたんです。いわゆるバックパッカーでした。
──なぜ海外へ?
そもそも僕は、割となんでも疑う性格というか(笑)。子どものころから、世間的な常識を「本当にそうか?」とすごく思っていましたし、同調圧力というか、そういうものを敏感に感じていました。
特に強く感じたのは初めて海外に行ったとき。15歳でアメリカにホームステイした時です。日本との文化や考え方が根底から違うのを体感して。その時に「常識ってなんなんだろう?」と根っこで感じたんです。
「常識」のもろさを目の当たりして、本当にそれが合っているのか?なんのためにやっているのか?もっといい方法があるんじゃないのか?と考えるようになりました。
そういう感覚が面白くて、1人でしょっちゅう海外に行っていました。起業の場所もあわよくば海外でと、サンフランシスコに行ったんです。包丁一本だけ持って。2年半経って、もうすぐ出店できるというときに、日本にいる妻のビザがおりず、結局帰国して日本で起業となったんですが…。
──初出店となる居酒屋「ちゃぶ」は、すごく繁盛していたそうですが。
妻と僕の二人で始めたんですが、「若い夫婦ががんばっとるな」という雰囲気があったのか、おっちゃん達が助けてやろう精神で通ってくれたんです。毎日、常連さんでいっぱいでした。
マニュアルでは削ぎ落とされる、“思いがけないもの”を生み出したい
──2年後には福島(大阪市北区)に「和酒 吟蔵」を出店。「組織的個人店」というコンセプトは、すでにあったんですか?
具体的に組織の仕組みを考え出したのは、ちょうど3店舗目を出店したときくらい。常識的に考えたら、セントラルキッチンを作って、マニュアルを整備して、となるんですけど、「いやいや、ちょっと待てよ」と。
──クラマ計画のお店は、個性的で細かなこだわりがそれぞれの店のメニューや店内の随所にあって、驚きとか楽しさがあります。マニュアルではない細かいこだわりが、人気を呼ぶ結果になったのかなと。
飲食業界は、個人店ぽい店とチェーン店ぽい店が二極化していくんじゃないかなという感覚はあったんですね。
僕らは、個人店をやっていきたいなと思っているほうです。じゃあ、個人店らしさってどこから来るのか?と考えた時にたどり着いたのが“偶発性”かなと。
──偶発性?
予想できないことが起きる面白さです。
僕たちは、新しく店を出すときは、まず最初に「日本酒×焼鳥」とか、お店のざっくりしたコンセプトだけを作って、ブレスト(※1)していくんです。
※1:ブレスト/ブレーンストーミングの略。アイデア出しの会議のこと
──企画書はないんですか?
企画書は作りません。じゃあブレストで何をするかというと、店舗名を考えるんです。
三日三晩、開発チームで、もうひたすらアイデアを出していきます。それをちょっとずつ削っていって、よく分からん名前になっていくんですけども(笑)。
──それで「あずき色のマーカス」「路地裏アバンギャルド」といった店名に。
そもそもブレストを重視するようになったのは、僕が考えている頭の中のイメージを、ほかの人に書式で伝えるのが難しいなと感じたからです。
──というと?
この店名にしたら、こういう料理いいよね、こんな内装いいよね、雰囲気いいよね、という「なんかいいよね」という理想やイメージをみんなで共有していくんです。
この空気感は、書式に落とすより、ブレストで徐々にすり合わせていく方が正確に伝わるし、アイデアが行き来して偶発性も生まれました。それって企画書ありきのスタイルじゃできないと思います。
──確かに「なんかいいな」という感覚的なものを書面で伝えるのは難しいですね。
決められたルールやマニュアルは、「なんかいいな」を極力削っていくものじゃないですか。その一方で、削ることで効率化を図り、いつでも同じ味わいのものを大量に提供できるのも事実です。
実際のところ、僕は子どもが4人いて、ファミリーレストランや回転寿司のお店によく行くんですけど、めちゃくちゃありがたい存在です。あんなに美味しいものを、こんなに安く売って、多くの人に愛されている。ああいうチェーン店がないと本当に困るなという実感があります。
効率化は、とても価値あることだと思いますし、社会貢献としての価値でいうとリスペクトもしています。ただ僕らはそうじゃなくて、「なんかいいな」の方をやりますと。
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