「てんぷら 近藤」近藤 文夫氏

ミシュランの常連であり、世界中からお客さんが足を運ぶ銀座「てんぷら 近藤」。

店主の近藤氏は東京・神田駿河台「山の上ホテル」の「てんぷらと和食 山の上」で料理長を21年間務め、1991年に独立。
薄い衣で揚げる手法や野菜を天種にするなど、斬新な発想を持つ料理人として知られる。

近藤氏が生涯をかけて追求する天ぷらとは何か。その思いをうかがった。

面接で「お前は和食の顔だ」と言われ、「山の上ホテル」の和食部門に

丸ごと1本を低温で30分かけてホクホクに揚げたさつまいも、細切りにし一気に揚げた花のようなにんじん、衣はパリッと中はみずみずしく揚がった太いアスパラガス…。

「てんぷら 近藤」の天種には野菜が多いが、もともと江戸前の天ぷらは魚介が中心で、野菜は「邪道」とされていた。

また、素材本来の味を生かすために薄い衣で余計な油を残さず揚げた軽やかな天ぷらもかつてなかったもの。独自のスタイルは、18歳で就職した「山の上ホテル」で育まれた。

「山の上ホテル」には天ぷらの職人を志して就職されたのですか?

近藤氏:まさか(笑)。小学生のころに父を亡くし、忙しい母を手伝って子どものころから料理はしていたね。薪でご飯を炊いたりしてね。料理は身近でしたけど、この道に入ったのは「料理人になれば、食いっぱぐれることはないだろう」というくらいの動機ですよ。

商業高校を卒業し、就職する時は和食をやるか洋食をやるかも考えてなかったな。「山の上ホテル」の面接で、創業者の吉田俊男社長(当時)から「お前は和食の顔だ」と言われて「てんぷらと和食 山の上」に配属されてね。

天ぷらを揚げるようになったのは、入社半年目くらいにたまたま担当したからなんだよ。

「和食の顔」近藤 文夫

天ぷらの技術は先輩から学ばれたのですか?

近藤氏:それが、天ぷら職人が独立するということで辞めてしまって、先輩がいなかった。だから、私の天ぷらは独学なんですよ。なけなしの給料で料理の本を買い集めては営業時間外に練習して技術を身につけた。上からとやかく言われず、アイデアを自由に試せたのは良かった。それから、私の師匠はお客さん。

「山の上」は池波正太郎さんや土門拳さんといった文化人も常連客に多く、舌が肥えたお客さんに鍛えられたのでしょうね。

近藤氏:「こういう料理がおいしい」というヒントをいただくことはあったね。池波先生も土門拳先生も料理の批判を口にすることはありませんでした。ただ、お客さんも食べた時の表情や食の進み具合から、料理を気に入っていただけたかどうかはわかる。

お客さんがどなたであっても、料理人になったからにはお客さんを喜ばせる責任がある。それは新人時代からわかっていて、お客さんの反応はよく見ていたよ。

それにしても、若くしてそうそうたる顔ぶれのお客さんに可愛がられるというのはお人柄ですよね。コミュニケーションはもともと得意だったのですか?

近藤氏:とんでもない。私は無口だったんです。今では信じられないって?(笑)お客さまに居心地よく過ごしていただくには会話くらいできないとダメだなと勉強をしたんだ。今では、テレビ番組などで料理を教える時も台本を見ないで話せるよ。

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