岸田 周三

行儀がいいだけでは、雑用係で終わってしまう

共働きの母を手伝って料理を作り、家族から「おいしい」と言われたことが原点。小学校の卒業文集には「料理人になりたい」と書いた。

19歳で名古屋専門料理学校を卒業後、最初に就職したのは三重県の志摩観光ホテル「ラ・メール」。当時の総料理長・高橋忠之氏は、少年時代からの憧れの存在だった。

高橋料理長を知ったのは、何かきっかけがあったのですか?

岸田氏:母親が図書館で借りてきた、第11代目帝国ホテル総料理長・村上信夫さんと高橋料理長の対談を中学時代に読んだんです。「料理長とは何ぞや」というテーマの本でしたが、特に印象に残ったのが、高橋料理長の姿。29歳の若さで料理長に就任し、地元の素材を追求した料理で「ラ・メール」を世界的に注目されるレストランに成長させたと知り、すごいなあと。

その後、家族旅行で志摩を訪れ、「ラ・メール」のフランス料理を実際に食べたんですね。すると、やはり…

おいしかった?

岸田氏:それまでに味わったことのないおいしさでした。高橋料理長にもお会いでき、言葉は交わしませんでしたが、その存在感に憧れましたね。「いつかここで働こう」と心に決めました。

語る岸田 周三

専門学校在学中は夏休みの1か月間、「ラ・メール」でアルバイトをされたとか。印象的なできごとはありましたか?

岸田氏:アルバイトは全国から集まっていたのですが、彼らの意識の高さに刺激を受けました。担当したのは皿洗いや掃除といった雑用がほとんどだったのですが、ある時、魚の下処理をやらせてもらう機会があったんですね。

僕たちにしてみれば、食材に触れるチャンス。魚の取り合いになり、「なんでケンカしてるんだ!?」と叱られました。そのくらいみんなハングリー精神があったんです。

学生時代から、「自分の仕事は自分で取ってくる」という姿勢があったんですね。

岸田氏:料理人の世界は競争社会。口を開けて待っているだけで餌を運んできてくれるような親鳥がいるわけではないことは、アルバイトをしながら肌で感じていました。

ただおとなしくしていたり、行儀がいいだけでは、雑用係で終わってしまう。後に残るのは、面白くない思い出だけです。

技術というのは「覚えたもの勝ち」で一度習得できれば、奪われることはない。それだけのものを身につけるには、学ぶ機会を自分から貪欲につかまなければなりません。そういう意識は「ラ・メール」で働き始めた時にはすでに持っていました。

続きはFoodionで
正解なき「食」の世界で、彼らはいかに生き、考えたか。料理を志す全てのひとへ贈る、一流シェフ・料理人たちの仕事論を無料でご覧になれます。