石川 秀樹

東京・神楽坂。毘沙門天善国寺の裏手、石畳の路地に佇む「石かわ」。2003年に暖簾を掲げて以来、素材を生かしつつ創意のある日本料理で評判となり、『ミシュランガイド 東京』においては2009年から連続で三つ星を獲得。連日、海外からもお客さんが訪れる。

店主の石川氏は後進の育成にも情熱を注いでおり、門人が料理長として腕を振るう姉妹店「虎白」「蓮」も近隣に展開。両店も同じく星に輝いている。老舗や名店のひしめく神楽坂にあって、「石かわ」一門がひときわ勢いを持つのはなぜなのだろう。

語る石川秀樹

親方との関係をすごく温かく感じた。始まりは、そこから

ミシュランの三つ星を獲得する以前から、確かな技術と独創性を併せ持つ日本料理の職人として評価されてきた石川氏。風格がありながら気さくで、人懐こい笑顔が印象的な人物だ。

神楽坂に3店舗を持つ株式会社一龍三虎堂の経営者でもあり、約30人のスタッフから「おやっさん」と呼ばれて慕われている。
いまや日本料理の世界で確固たる地位を築いた石川氏だが、若い頃は今では想像のできない、人と話すのが苦手なフリーターの青年だったという。

石川氏の若いスタッフへのまなざしの暖かさは、そうした原体験からくるのかもしれない。

高校卒業後はどんなお仕事をされていたんですか?

石川氏:新潟県燕市の出身で、取りあえず地元の洋食器問屋に就職したんですけどね。20歳の時に彼女に振られて、何もかもがイヤになり、鞄ひとつで東京の友人の部屋に転がり込んだんです。

上京の翌日に原宿に行って、目についたカフェバーに飛び込んでアルバイトとして採用してもらって、フリーター期間が2年くらい。三畳一間、風呂なし、トイレ共同の貧乏生活でね。夜はラブホテルの掃除をやったりもしていましたよ。

なんと、フリーターをされていたんですね!その頃、料理にご興味は?

石川氏:全く(笑)。そもそも美味しいものを食べたことがなかったんです。当時はまだ「気軽にイタリアン」というような時代ではなく、レストランなんて行ったことがなかったですし。

ただ、23歳くらいの時に、さすがにずっとフリーターをやるわけにはいかないから手に職をつけなければと考えて、料理人になることを思いついたんです。私は人と話すのがすごく苦手でしたから、会社の営業職とかは無理だけど、料理人なら料理さえ作れば何とかなるだろうと。イージーな感じですよ。

最初に修業されたのは、原宿にあった日本料理店「さくら」ですね。

石川氏:「さくら」はバーを併設した、そのころとしては珍しい日本料理店で、芸能人の行く店として雑誌によく取り上げられていたんです。ミーハー心から門を叩いたら、「何しに来たの?」と社長に言われました。当時の私は東京にかぶれて流行りの服に髪もパーマをかけていて、本気で働きそうにはとても見えなかったんでしょうね。

そこで、頭を丸めて、もう一度お願いしに行ったら、親方と面接させてもらえて、働けることになりました。その親方のことは今も「おやっさん」と慕っています。

「おやっさん」は、どんな方だったのですか?

石川氏:見た目は強面でね。パンチパーマでバリバリ(笑)。厨房では厳しいけれど、懐の深い人でね。家族の食卓に呼んでくれたりして、すごく温かいなと。地方から上京して友人も少なかったので、こういう世界もあるんだと親方の人間味にひかれました。

この人とずっと一緒にいたいなと感じて、そこからですよ。料理人としてやっていきたいと思ったのは。

ただ、当時は料理を極めようという強い気持ちではなかったですね。修行時代は10店舗以上移りましたが、自分の意思なんてないですよ(笑)。今でも名残りは残っていますが、当時の日本料理の修業システムは徒弟制度が色濃くて。自分が師事する親方から「次はあの店で働きなさい」と言われたら、素直に包丁をまとめて移るのが普通でした。

最近のように「妻と相談してから…」なんて許されない世界です。数ヶ月で次の店へということもありました。

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