「一郎さん」の愛称で多くのファンを持つ宮井 一郎さん。大阪府島本町にあるジビエ専門のレストランのシェフであり、狩猟の指導も行なうプロのハンターです。山と猟を通して「命をいただくこと」を20年以上見つめ続けてきた一郎さんに、ジビエの魅力、さらに人間は山や生き物など自然とどう向き合っていくべきか、インタビューしました。
(取材:2022年2月16日)
※宮井 一郎さんは、リレーインタビュー「いつでも人生は再スタートできる!ナポリピッツァに魅せられ、レーサーからピッツァイオーロへ【リレーインタビューVol.18】」の髙山 一郎さんからのご紹介です。
<プロフィール>
宮井 一郎(みやい いちろう)さん
1972年2月、大阪府高槻市生まれ、寝屋川市育ち。高校生の時に、画家を目指し渡仏。フランスでジビエに出会い、以降もイタリアやフランスをめぐる。高校卒業後、さまざまなイタリア料理店で学ぶ。26歳のときにオーナーシェフになり、狩猟免許を取得。33歳からリゾートホテルの料理顧問を勤め、2007年、高槻市にてイタリア料理店「リストランテ コンテ」オープン。2019年、島本町水無瀬にてジビエ専門レストランとして「リストランテ コンテ」移転オープン。現在、オーナーシェフ兼プロハンターコンサルとして活動中。
ジビエを狩猟から学べる一郎さんの「狩猟コンサル」
編集部:「リストランテ コンテ」(宮井 一郎さんのジビエレストラン)、人気ですね。でもお昼はお電話がつながらないようですが、今はランチは営業されてないんですか。
宮井 一郎さん(以下一郎さん):実は今「コンテ」は夜だけの営業で昼はやってないんです。島本町の「ふるさと納税」のジビエが好評で、出荷が40カ所くらい溜まっていて。コンテのランチタイムを休んで出荷作業にあたっています。
編集部:「島本ジビエ販売所」も人気なんですね!
一郎さん:それだけでなくて、「狩猟をやってみたい」という人が増えてきててその対応もあって。狩猟コンサルの生徒さんが増えていて忙しいのもあるかな。
編集部:狩猟コンサルとは一体どんなことをされているんですか?
一郎さん:もともと「コンテ」のお客さんだったり、ジビエが好きで狩猟をやってみたい、あと僕のことが好きと言ってくれる方と(笑)、それで集まった「島本ハンターズ」というのがあって、そのメンバーが40人近くに増えてきて。何をやりたいのかとか各自の目的が違うから、「狩猟コンサル」という名目でそれぞれに合った勉強をしてもらおうと考えています。
基本的には生徒さんには1年を通じて、猟からジビエ料理までを教えていくかたち。狩猟の盛んな長野県とかだと狩猟免許の教室があったりするけど、関西ではなかなか教室ってない。
狩猟免許の更新期間が3年なんだけども、その期間のなかで実際に「狩猟をしました」という人は本当に少ないんです。
編集部:実際の狩猟は難しいですよね。
一郎さん:しかも、罠をかけて、獲って、ジビエとしてさばきました!という段階までができる人は、もっといないよ。夢はあるけども実際にどうしたらいいか分からないという人が多いわけです。だから狩猟する機会を作ってあげて、罠をかけて、狩猟して、さばいて、精肉までできるように教えますよと。プロ向けやね。まあそういうことをやっています。この島本は大阪も京都も近いし、山も近いという立地の良さもあるからね。
編集部:現代の日本で、そこまでできる環境がなかなかないですよね。狩猟コンサルの費用はどれくらいなんですか?
一郎さん:その人の目的によって今設定をいろいろ考えているところやけど、たとえば、情報だけ欲しい人は月500円でもいい。実際に狩猟に行くプロコースは月5万円。1年を通して狩猟から精肉までできるようになりたい人は年間50万円といった感じかな。
編集部:生徒さんはどんな方たちなんですか?
一郎さん:本当にいろいろ。料理人もいれば、システムエンジニアもいるし、ヨガのインストラクターだったり、高校の先生、大学の教授だとか、テレビ局のディレクターさんもいます。日本コナモン協会の会長さんも入ってるよ。狩猟免許もすでに持っている人もいれば、これから取得したいという人もいる。そういった人たちに、狩猟の知識を学んだり、体験したうえで、お店やオンラインでジビエ料理も教えていこうと。
高校生でヨーロッパへ。ジビエに出会いイタリア料理の世界へ
編集部:確かに狩猟からジビエまで教えてくれる教室はなかなかないと思います。でもそもそも一郎さんは料理人としてジビエを専門にレストランをされていて、高い評価もされています。料理を始めたきっかけは?
一郎さん:僕が料理人になろうと思ったきっかけは高校生の時にフランスに行って、ジビエに出会ったからやね。子どもの頃は、バブルの真っただ中で、親父の不動産業も羽振りが良く、仕事やプライベートで海外に行く機会も多い家庭でした。僕も絵描きになりたいと高校生の時にフランスに1ヶ月間行かせてもらいました。
そこでジビエを知って、料理が好きになってからもフランスやイタリアに行っていました。そのせいで高校の出席日数が足りなくてギリギリ卒業できた感じ…。卒業してからイタリア料理店に就職したんだけれども、就職してすぐに有給休暇を20日間くらい丸々使って、またイタリアに行ったんです。
編集部:就職してすぐにイタリア??お店には怒られなかったんですか。
一郎さん:めちゃめちゃ怒られたよ(笑)。世間知らずの子どもやったからね。あと遅刻もよくしたんよ。したけれども、僕はこう言っていた。「シェフは店から近いところに住んでる。僕は遠いところに住んでる。だから同じスピードで歩いているけど、僕の方が店と家が遠いから、僕が遅いのは当たり前」と。よく平気で言ってたなあと今は思うけど(笑)。
編集部:(笑)。シェフはなんと?
一郎さん:もちろん最初は怒っていたけども、だんだん仲は良くなっていきました。今も仲いいよ。
それから店は3回変わりました。ずっとイタリア料理しかやってきていないけど、師匠といえるのはやっぱり渡辺 聡さん。1992年に、神戸のハーバーランド「神戸モザイク」ができた時、「アレグリア」というイタリアンレストランのオープニングスタッフで僕が入ったときの顧問です。
渡辺さんはイタリアから帰ってきたばかり。彼が埼玉に店を移った時にもついていったし、その次に京都に行った時も副料理長として呼ばれて行きました。だから7年くらいは一緒にやっていたかな。
編集部:渡辺さんはジビエをされていたんですか?
一郎さん:イタリアではジビエは盛んで、高級料理のひとつだけれども、渡辺さんはジビエは苦手で、僕もまずはイタリア料理の基本をしっかり学ばないとあかんと思ってました。
本もたくさん読んだよ。その頃はイタリア料理の原書を日本語に訳すのが趣味だったくらい。イタリア料理の父と呼ばれるペッレグリーノ・アルトゥージさんの本が好きだったよ。料理書やけど文化面から書いてくれているんです。料理以外にもたとえば精神学や哲学の本もよく読んだよ。ニーチェ、フロイトも読んだし、もうずっと勉強やね。
※ペッレグリーノ・アルトゥージ/1820~1911年。近代イタリア料理の父と呼ばれる。北イタリアを中心におよそ790のレシピを集めた「イタリア料理大全 厨房の学とよい食の術」を出版。
26歳でオーナーシェフに。同時に狩猟免許を取得
編集部:ジビエを始めたのは?
イタリアではジビエ料理はメジャーだから、コースの中でジビエも扱っていたし、料理人同志でジビエの話もするけども、まだその頃は自分の道としてはやっていなかったね。ジビエを本格的に自分の道としてやりだしたのは、奈良で料理長になってから。
25歳だったかな。奈良のあるイタリア料理店で料理長が飛んだんです。黙っていなくなった。昔はよく料理長が飛んでたんよね(笑)。それでオーナーが困っているという話を聞いて、助けに行ったんです。やってるうちに料理長やらへんか、となって。
ただオーナーの息子さんがイタリアから帰ってきて近くに店を出したんやけど、1年くらいでまたその店がつぶれた。それで息子さんが本店に帰ってきたから、僕はつぶれた店を借金して買いました。オーナーシェフになったのが26歳かな。
編集部:若くしてオーナーシェフに。
一郎さん:その頃に狩猟免許も取りました。その時は豚も屠畜して、鴨肉も扱って、紅茶も知り合いが作っている茶葉をもらいに行って、牛乳も自分で絞って、それでまたチーズを作ったりして、アホみたいにのめり込んでたね。
それでその店が流行ったんです。当時は羽振りがよくて、でも調子に乗ってしまって7年で店をつぶしてしまったんよ。
編集部:33歳ですね。2000年代のはじめくらい。
一郎さん:そうそう。店ではジビエも出していたけど、奈良県で鹿肉を出してもなかなかしんどいものがあって。それにまだその頃はジビエ料理は、世間的に全然認められてなかったしね。
害獣駆除の狩猟と「ジビエの狩猟」は違う
編集部:奈良では狩猟には行っていたんですか?
一郎さん:奈良県と三重県との県境に御杖村(みつえむら)という場所があるんやけど、そこの猟友会に入ってやってました。猟に行って夜中2時くらいに店に帰ってきて、そこから肉をさばいて店で出していました。今はやっと日本でもジビエの時代が来たなと思うけど、その頃はなかなか。
その頃やっていた猟はいわゆる巻き狩り。勢子(せこ)と打ち子に分かれて獲物を追いかけて捕まえる方法です。勢子は空き缶を棒でガンガンたたいて追い立てる役。鉄砲で打つのが打ち子。僕は会の中では若いから勢子ばっかりさせられたね(笑)。
編集部:昔ながらの猟のスタイルですよね。
一郎さん:そう。だから今の僕のやり方とは全然違うかった。その頃は僕もまだ若造やし、僕の獲り方、刺し方では、猟はさせてもらえなかったんよ。日本の狩猟は荒いから。だからジビエにするには肉が臭いのよ。
編集部:イタリアの方が技術的に上なんですか?
一郎さん:イタリアはもともとジビエが盛んやから、血抜きが上手いんです。それに日本は背ロースしか使わないし、それ以外の部位は全部いらないと廃棄したりする。日本でいろんな部位を余すことなく使うという感覚が、まだその当時はなかったんですね。
日本で主流の狩猟のやり方は散弾銃を使うから、ゲームとしては面白いけど、でもその方法は殺すのが目的で、僕は「食べる」「命をいただく」が目的だから、全然違うのよ。散弾銃で殺すのはオーバーキル(※)。
オーバーキルだと即死して、心臓も一瞬で止まってしまうから、そのあとに頸動脈を切って血抜きをしても、血がきちんと抜けないんです。僕はそれが嫌やったから、僕のスタイルにやり方を変えました。
※オーバーキル=過剰な殺戮、または不必要に殺すこと。
編集部:どんな方法ですか?
一郎さん:まず罠をかけて、鹿なら軽く殴って脳震盪(のうしんとう)を起こさせる。そのあとに心臓の上の頸動脈だけをピュッと切って、心臓のポンプ作用だけでじょじょに血を抜いていく方法。血抜きにかかる時間は10分から20分くらいかな。それを一人で全部やってます。というか、もうそこから料理は始まっていると僕は思っています。
編集部:それは一郎さんが誰かに教わったものではないんですか?
一郎さん:僕に似た考えの猟師さんもいますよ。他に生け捕りにしてもう少し太らせてから肉にする畜産に近い方法もある。でも僕は畜産ではなく、あくまで天然に意味があると思うよ。
畜産はやっぱりどうしてもストレスがかかって臭くなるんです。人間でもそうやけど、牢屋に入れられて、好きなものを食べさせてもらえない、お風呂にも入れない、排泄と寝る場所が同じで、しかもいずれは殺されるということが分かっていたらストレスかからへん?
ストレスがかかると体臭が出ると言われているから、どうしても独特の肉の臭さを僕は感じるんです。だから僕の獲った肉を食べてもらったら分かるけど、全然臭くないんです。なんでかというと、死ぬ瞬間まで“生きようとしている”からね。それを経験したら、僕自身も生き方を変えたいと思います。死ぬ瞬間までストレスを抱えずに生きたいなあと。
編集部:ストレスが肉の質や匂いに影響がないのがジビエなんですね。
一郎さん:地球上に60億人がいる中で、全員が食べていくための方法として畜産は当然必要です。僕のようなやり方が、まかり通るとは思ってない。でも人間は生き物を殺すことでしか生きていけない、その事実を伝えていきたいとは思っています。コンビニでもスーパーでも全部殺されたものが並んでいるわけで、植物も生きているからどんな人も絶対に何かを殺しているわけで、それを猟やジビエを通して実感してほしいんです。
たくさんの食べ物がある中でジビエはとても美味しいものです。イタリアではジビエは最も高級な料理のひとつだし、それだけの価値があるとされているからね。
コンテは大阪初の「レストラン×食肉処理施設」
編集部:「リストランテ コンテ」はどういう経緯で?
一郎さん:奈良の店をつぶして借金を抱えてしまって、その借金を返すために大手のリゾートホテルで料理顧問をやりました。単身赴任で鳴門、伊豆、離島にも行って。
2007年に高槻市の上牧町でイタリア料理店として「リストランテ コンテ」を始めて、2019年からは島本町水無瀬に店を移しました。水無瀬に来てからは、どうせなら食肉処理施設も作って、ジビエ専門にしようと。通常のハンターは11月から3月までしか猟ができないんやけど、僕はプロハンターなので通年で猟ができるんです。それで年間100頭は獲っているし、レストランもジビエ専門でもいいかなと。
大阪府で食肉処理施設のあるジビエレストランは初めてだったんちゃうかな。今は大阪の茨木市と枚方市にもあって、でもそれも友達がやってるんやけど。
編集部:水無瀬の「コンテ」に一郎さんのジビエが好きな人が集まってできたのが「島本ハンターズ」で、狩猟コンサルなんですね。
一郎さん:そうです。僕の培ってきた料理やジビエの経験と知識を、料理以外で活かしたいという、そのひとつが狩猟コンサルです。
「食の理(ことわり)」を教育に活かして
一郎さん:僕の夢がもうひとつあるんです。獲るだけではなくて命をいただくところまで考えたら、狩猟やジビエを通した「食の理(ことわり)」としては、教育にも活かしたいなと。
それに向けてこの島本でキャンプ場をやろうと思っています。今言ったような命をいただくという考え方を小中学校の子どもたちに教えていきたいんです。だから今、教育委員会と島本町に、学校の道徳の時間の林間学校として割り当ててもらえないか、交渉してるんやけどね。
林間学校で子どもたちと一緒に、獲れた獲物の皮を剥いで、肉をおろして、バーベキューやカレーライスに料理して「いただきます」と手を合わせてみんなで食べます。それで命をいただくことの意味を話させてもらうんです。
編集部:子どもたちが体験を通して学ぶ場ですね。
一郎さん:5年のうちには実現させたいと思っているけど、動物の血を見てトラウマになるとか、反対はたくさんあると思うよ。でも、「命をいただく」「殺す」ということは、それくらい大きなことなんだと分かることが大切。
そして自分たちが生きていくには、生き物の命をいただく必要があるけれども、そのことが分かると食べるため以外に殺すことはアカン!と思えるようになるんです。それを知っていれば子どもたちが大人になったときに、“むかついたから殺した”というニュースになる事件のような、もしそういう時があっても、みんな踏みとどまれるんじゃないかと思う。
そういう子どもたちが増えていくと、戦争もなくなるかもしれへんよね?殺すことは無意味やとなれば世界平和にもつながるよ。
森づくりには“経済”が動かなあかん
編集部:島本で狩猟をしてレストランでジビエを出す一郎さんですが、島本での活動として、今後の可能性は?
一郎さん:みんな「島本の山はいい」とは言ってくれているけど、たとえば僕が『山ソムリエ』やったら、Cランクやね。森がないんよ。僕が思う「いい山」は山裾にいくに従い、森があり、雑木林があるんです。島本は山の次はすぐ住宅やから。熱海の土砂崩れの災害も、山しかないから住宅に被害が及ぶ。山は浸食でくずれるんです。だから山には森や雑木林が必要なわけで、それがあれば生き物の餌もいっぱいできるし、いいことがいっぱい。でも大阪ではもうほとんど森が残ってないんちゃうかな。
編集部:一度壊された環境で森づくりは時間もかかるし難しいですよね。ところで山ソムリエとは?
一郎さん:またもうひとつ僕の夢で「山ソムリエ制度」というのがあるんです。
不動産会社がマンションを建てるために山を開発するときに、山ソムリエの制度を使って、たとえば、その山の自然保全レベルがCランクだったら、山ソムリエが、企業の資金と力でBランクにできるんだったら、そこにマンションを開発してもいいよと判断する制度です。そうしたら大企業の資金を使って森作りができるでしょ。さらに企業も環境に優しいことをしていますというアピールができる。
編集部:山に関するプロフェッショナルの資格を作って、その評価基準のもとで、企業は開発を行なうということですね。本来、森づくりはやろうと思えばできないことはないと。
一郎さん:要は“経済”が動かなあかんということ。自然に価値をつけるのが大事。ボランティアに任せきりでなく、市場価値がないと。山ソムリエ制度がもし島本町でできたら、全国に売り出していけるはずです。
養蜂や菜園も手がける山岡さんを紹介します
編集部:最後になりますが、一郎さんが次に紹介したい方はいらっしゃいますか。
一郎さん:山岡 幸誠(こうせい)さんです。山岡さんは高槻市富田町で焼肉屋さんをしています。彼は島本ハンターズではないんやけど、プロのハンター。養蜂や菜園もやっていて、最近お店を出したばっかりだし、いろいろ聞けるんちゃうかな。
編集部:分かりました!ありがとうございます。山岡さんのインタビューもとても楽しみです。一郎さん、ありがとうございました!
まとめ
「シェフで猟師」から思い描くちょっと頑固な職人肌のイメージを覆す、朗らかで率直な人柄。とにかく笑いがいっぱいの宮井 一郎さんでした。ジビエと一般的な害獣駆除の狩猟方法の違いなど知らなかったことがたくさんで、とても勉強になりました。一郎さんの狩猟コンサルもきっと面白いに違いないと感じます。
SDGsはじめ、自然環境問題が世界レベルで注目される今、折しも一郎さんのジビエがメディアでも取り上げられるようになりました。食べることは生きること、命そのものの根源。自然と生き物を見つめ続ける一郎さんは、人間味と笑いと愛にあふれています。一郎さんの目下の目標であるジビエ林間学校と山ソムリエ制度。きっと実現すると信じています。
<インタビュー:峯林 晶子・杉谷 淳子、記事作成:峯林 晶子>
<取材協力>
店名 | RISTORANTE Co.N.Te(リストランテ コンテ) |
住所 | 大阪府三島郡島本町水無瀬2-7-1 |
営業時間 | 18:00~ |
URL |
店名 | 島本ジビエ販売所 |
住所 | 大阪府三島郡島本町水無瀬2-7-1 |
URL |
URL | 宮井一郎狩猟コンサルティング |
※狩猟コンサルティングのご相談は、090-3277-9436(宮井)までお問合せください。
<写真提供>
宮井 一郎
※インタビュー風景を除く