創作和食とビオワインの店「osteria goirgione da masa」でスタッフと本間さんが仲良く写真撮影

2020年秋、ベネツィアでオープン。創作和食とビオワインの店「osteria goirgione da masa」でスタッフとともに。

前回のイタリア・パドヴァのミシュラン三つ星レストラン「Le Calandre(レ・カランドレ)」で勤務する若き料理人、吉川 朴(ほお)さんのご紹介
イタリア・ベネツィアで暮らす料理人・本間 真弘シェフ(画像:右から2番目)が今日の主役です。
コロナ禍の2020年秋、創作和食とビオワインの店「osteria goirgione da masa(オステリア・ジョルジオーネ・ダ・マサ)」を開店。ワインが好き、和食が好きなイタリア人が集います。

15年前、イタリア行きを誰もが反対する中、『行けばなんとかなる』と後押ししてくれたのは、海外での修業経験が豊かな2人のシェフでした。

「シェフたちの後押しがなければ、今の自分はなかった」と話す本間さん。波乱万丈のイタリア物語をお届けします。

<プロフィール>
本間 真弘
1982年、岡山県生まれ。神戸国際大学卒業後、神戸・三宮にある和食居酒屋「柊草本店」に勤務。その後、広島・尾道の「Bella vista境が浜ホテル」(現:ベラビスタ スパ&マリーナ 尾道)で鈴木 光男シェフに師事。その後、イタリアに渡り、住み込みアルバイトからスタートして、3年後、就労ビザを取得。一つ星レストラン「Gran Caffe ristorante quadri」ほか名店で勤務。「Osteria Enoteca Ai Artisti」などでのシェフ経験を経て、2020年9月、コロナ禍にベネツィアで和食とビオワインを楽しめる「osteria giorgione da masa」をオープン。

実家も飲食店。教師を目指すも神戸で和食料理人に

クックビズ世古:今回ご登場いただくのは現在、イタリア・ベネツィアで「osteria goirgione da masa(オステリア・ジョルジオーネ・ダ・マサ)」を営むシェフ、本間 真弘さんです。ベネツィアで唯一、日本人の料理人として働いていらっしゃいます。

本間さん:今日はよろしくお願いします。

クックビズ世古:では早速、本間さんが飲食業界に入った経緯をお聞かせください。

インタビュー中の全体の様子

画像下:本間 真弘さん

本間さん:私は岡山県出身です。実家も飲食店を営んでいまして、田舎によくある小料理屋のようなスナックのようなお店です。
だから私にとって、飲食業界は身近なもの。高校時代もずっと飲食店でアルバイトしていました。

クックビズ世古:大学は神戸なんですよね。

本間さん:はい、本当は教師になりたくて大学に入ったのに、気づけばカフェ、レストラン、バーでアルバイトに励む毎日。それで卒業と同時に飲食業界に入りました。最初に勤務したのは、神戸・三宮駅にほど近い和食居酒屋「柊草」です。和食料理人としてスタートしました。

クックビズ世古:確か、100席ほどもある大きなお店ですよね。

本間さん:徐々に規模が大きくなったようです。そこで料理について基礎から教わりました。学ぶことばかりで右往左往。よく怒られてましたよ。

そのうち、勉強を兼ねて暇さえあれば食べ歩きをするように。神戸はフレンチやイタリアンが多くてね。特にシチリア料理「La Famiglia(ラ・ファミリア)」には何度も通いました。本場イタリアで修業経験もある木村シェフには影響を受けました。今も帰国したら、立ち寄ります。

それで自然にイタリアンに惹かれるようになり、本格的に勉強したいなという気持ちが大きくなっていったんですよ。

イタリアンに魅せられて。海外経験豊かなシェフの言葉が人生の転機

クックビズ世古:海外にいくきっかけは何だったんでしょうか?

本間さん:大きなきっかけは、実家の紹介で広島・尾道にあるリゾートホテル「Bella vista境が浜ホテル」(現:ベラビスタ スパ&マリーナ 尾道)のイタリアン部門に転職したこと。本場で修業してきた鈴木 光男シェフとの出会いですね。
それまでにも「海外に行ってみたい」「イタリアで料理を学びたいな」と言ってたんですよ。でも家族・友人・料理人仲間から猛反対ですよ。

クックビズ世古:やめとけと?

顎に手を当て思い出すように話す本間さんの写真

本間さん:そりゃそうですよね。和食料理人から転向して間もないうえに、海外旅行にすら行ったことがなかった(笑)。

でも鈴木シェフは
「本間君も本場に行った方がいいよ」
「言葉?行ったら、なんとかなるよ」「どうにかなるから」と。

クックビズ世古:そうなんですね。

本間さん:思えば、前向きに背中を押してくれたのは実際に海外での経験がある人たちだけでしたね。
神戸で和食料理人としての修業時代に、「La Famiglia」の木村シェフにも何気なく言ったことがあるんです。「イタリアンを学びたいな」「イタリアに行ってみたいな」と。

そしたら
「やったらいいねん」
「行ったらいいねん」
「俺もそんなんやった。チャオ、グラッツェだけでなんとかなったし」
って(笑)。

「やっていいんだ」ってすごく勇気をもらいました。
だから計画的にすすめたというわけではなく、「やってみたい」「行ってみたい」という好奇心が勝ったという感じ。結局、「Bella vista境が浜ホテル」に1年勤務したのち、24歳で言葉もろくにわからないまま海外に飛びました。

パニーノ1つで仲間と料理に打ち込む日々

フィレンツェの街並みの写真

ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの街並み。

クックビズ世古:不安はなかったんですか?

本間さん:いやぁ、もう不安しかないですよ。まずは仕事を探しながらフィレンツェの語学学校に通いました。そのころはワーキングホリデーなんてないので学生ビザで入国です。今は学校側がレストランを紹介してくれたりするんですけどね。

クックビズ世古:就労ビザをとるのはむずかしいですから。どうやって仕事を探したんですか。

本間さん:ホワイトボードに「仕事さがしてます」って書いて見せるという…。

クックビズ世古:ヒッチハイクみたいですね(笑)。

本間さん:言葉も片言ですし。でも見つかったんですよ。住み込みです。衣食住は用意してくれますが給料なんて出ない。ひたすら玉ねぎをむいたり掃除したり。
それでもね、「俺、イタリアで働いているんだ」って充実感でいっぱいでした。

初めて星付きレストランで働いたのは、フィレンツェのチェルバイアという郊外にある「ラ・テンダ・ロッサ」という店。ここも住み込み。レストランの上の部屋が住居です。
給料は出なくて、スタッフ同士でチップを分けあって月300~400ユーロほど手に入る。日本でいえば月4~5万円ほどでしょうか。それで生計をたてていました。

ピエモンテ州トリノの市場でスタッフ4名で撮った写真

ピエモンテ州トリノの市場。

朝はパニーノを1個食べて、料理に打ち込む日々。でも寝るところはあるし、まかないは出るので食いっぱぐれずにすみました。

クックビズ世古:大変そうですね。

本間さん:そのうち同じ志をもつ料理人仲間ができて、たくさんいろんな話をしました。そこで「イタリアで料理人として生きていく術」を学んだ気がします。

クックビズ世古:イタリア人の友人ですか?

本間さん:日本人もいますよ。ただ就労ビザが出ないので、3年ぐらいでみんな帰国しますね。その後、日本で自分の店を持つ人が多いです。

念願の就労ビザを取得。イタリア全土を食べ歩きながら武者修行

本間さん:そのうち少しずつお金を貯めては、パルマ、ボローニャ、シチリアと食べ歩きをするようになりました。イタリアは大体、行きつくしました。

ベネツィアで、日本の料理人が帰国するからその代わりにと正式に雇用してもらうことができ、運よく渡伊して3年で念願の就労ビザを取得できました。2010年のことです。

クックビズ世古:良かったですね。

本間さん:その後も気持ちの赴くままに、あちこちで働きました。ベネツィアだけでも数軒。星付きのリストランテでスーシェフをさせていただいたり、クリエイティブなレストランでシェフを任せていただいたこともあります。

船上から眺めるベネツィアの街並みの写真

船上から眺めるベネツィアの街。

吉川さんが働いていたベネツィアの一つ星レストラン「Gran Caffe ristorante quadri(グラン カフェ リストランテ クアドリ)」でも働いていました。彼とは同時期には勤務してませんが。

そうそう、なんとなくこの街が嫌になって2度ほど出たこともあります(苦笑)。

結局、住んだのは、フィレンツェとシチリアとベネツィアかな。1つのところにとどまってないですね。

イタリアに渡って15年で独立。親日家が多いベネツィアであえて和食で勝負

本間さん:これまで気持ちの赴くままにいろんな店で学び続けてきたんですが、40歳を前に「もう、これ以上転々とするのはいいかなぁ」と思うように(苦笑)。

クックビズ世古:それで独立を考えたんですか?

本間さん:気持ちは半々だったんですよ。日本に帰ろうかなとも思っていました。でもイタリアでの料理仲間であり、同志ともいえる岩井 武士シェフから、「これだけ長くイタリアで腰を据えてやってきたんだから、ここでの人脈やコネクションを強みにしたほうがいいと」。
岩井シェフは、「イタリア・ミシュラン2021」において、開店1年目にして自分の店「Aalto(アアルト)」で見事1つ星を獲得した実力者。その彼に「イタリアになじみすぎて、日本そのものになじまないのでは?」とのアドバイスももらいました(苦笑)。

クックビズ世古:イタリアにすっかり染まったんですね(笑)。

お店のカウンターでワインを片手にスタッフと笑顔の本間さんの写真

「osteria giorgione da masa」のカウンターでスタッフと。

本間さん:ちょうどその頃、あるホテルのオーナーから「店を譲りたい」と連絡がありました。正直にいうと、年季の入ったお店で設備も古くて躊躇したんです。
しかし「マサが来てくれるんだったら、キッチンも新しくする。ぜひともお願いしたいんだ」と。

クックビズ世古:熱烈なオファーですね。

本間さん:ベネツィアは最近、コロナ禍で空き店舗が増えていて、中国人をはじめ海外の資本家による不動産の買い占めが多いんです。オーナーはベネツィアの街をきちんと理解している人に譲りたいという気持ちがあったようです。

クックビズ世古:それでコロナ禍で「osteria giorgione da masa」を2020年秋にオープンしたんですね。でもなぜ和食の店にしたんでしょうか。

本間さん:今、39歳。15年間イタリアで経験を積んだけれど、この古い街・ベネツィアでそこそこのイタリアンを出したところで続くかなと。

黄のボウルに盛り付けられたうどんの写真

和食で培った腕を発揮。「うどん」も地元の方に好評です。

クックビズ世古:本場ですしね。

本間さん:それで和食に近いイタリアンをやってみようと決意しました。メニューの8割は日本食、器は和食器。日本酒や焼酎も提供します。和食料理人として返り咲いた感じです(笑)。
メニューもアジフライや焼き魚とかね。うどんやラーメンも出します。

クックビズ世古:そのほうが差別化できますね。和食の反応は?

本間さん:反応は悪くないですよ。ベネツィアは、イタリア国内でも日本語学校の数が多く親日家が集まる街なんです。

クックビズ世古:なるほど、親日家が多いと知ったうえで和食で勝負したんですね。

たくさんの日本酒のビンの写真

お酒が大好きな本間さん。品質には徹底してこだわり、日本酒は冷蔵状態でミラノにも支店をもつ柴田屋酒店から直接入手しています。

魅惑のビオワイン。将来はチケッテリアの店を開きたい

本間さん:今、ぬか床づくりにもトライしています。米ぬかではなく、イタリアの穀物をミックスさせてね。麺もこっちの小麦で自家製で作ります。
日本と違って空気が乾燥しているので、パサパサになることも多いのですが、だめならまた研究してトライ。新しいことにチャレンジしているのだから、失敗はもう当たり前だと思ってますね。

クックビズ世古:今後は?

本間さん:将来はね、チケッテリア(CICCHETTERIA)の店を出してみたいんです。ワインをだすおつまみ屋さん。いわゆる立ち飲み屋です。
私自身、お酒が大好きです。ベネツィアになんで残ったのかというと大酒飲みが多いから。世界でお酒の消費量が2番目に多い都市といわれているぐらい。

空のワインボトルがたくさん並んでいる写真

本間さんは大のワイン党。なんと1晩で空にしたワインボトルがズラリ。今は防腐剤を使わないビオワインに魅了され、時間があればワイナリー巡りをしているそう。

クックビズ世古:だからチケッテリアなんですね。

本間さん:そうそう。ベネツィアにはいろんなワインが集まってきます。ここにいるだけで各地のワインが手に入る。酒好きにはいい街ですよ。
ただ今は出店したばかりなんで、この店に集中。その夢はまだ将来にとっておきます。

ベネツィアのリストランテ「le cementine」のnori koderaさんを紹介します

クックビズ世古:日本から海外へ飛び出して、これまでを振り返ってみていかがですか。

本間さん:私がイタリアに来たときは、携帯電話もガラケーの時代でした。地図ひとつとっても紙を広げて…。いまはスマホで検索すればなんでも回答がでてくる。便利になりました。

何もわからないままイタリアに来て、バスの乗り方1つから覚えていき、失敗しながらここまでたどり着いた感じです。

クックビズ世古:先行きを考える時もありますよね。

本間さん:そうですね。でもその時その時、自分が思う最善の道を選んできました。「後悔は先に立たず」。座右の銘じゃないけどそう思います。

料理・お酒を学びたくて飲食業界に入り、夢ができては方向転換し、学んで前に進んでは、また新しい目標ができて…という感じで生きてきました。

住まいも働く場所もそれに合わせて変わっています。

クックビズ世古:自分が思う最善の道を選んだ結果なんですよね。

本間さん:そうですね。今は「osteria giorgione da masa」に来るお客様に、日本食×ビオワインの組み合わせを楽しんでほしいと、毎週のようにワイナリーに行き、ワインの勉強に励んでいます。

「馬肉のたたき」を盛付いる写真

「馬肉のたたき」。自家製ポン酢を添えて。

クックビズ世古:しばらくは新店に集中してベネツィアに腰を落ち着けることになりそうですね(笑)。

では最後に本間さんが紹介したい方を教えてください。

本間さん:店によく来てくれるリストランテ「le cementine(レ チェメンティーネ)」のスーシェフ・nori koderaさんを紹介します。非常にアクティブで思い切ったことをする方です。

彼はイタリアで修業した後、日本で独立したにもかかわらず、またイタリアに戻ってきたんですよ。

クックビズ世古:えっ?それはまたユニークな話が聞けそうですね。楽しみになってきました。今日はお忙しいところ、本当にどうもありがとうございました。

まとめ

「その時その時、自分が一番最善だと思う道を選んできた」。
和食からイタリアンへ、日本から海外へ。経験値、時間軸に縛られずに、料理人として自分の気持ちに正直に生きてきた本間さん。

人生の岐路に悩みはつきものですが、本間さんの話を伺っていると、どんな道を選ぼうとも「その時の最善」を選んだ自分を信じること。それが次の力につながっていくのだと感じました。

そして実は、本間さんの夢には続きがあります。

それは自分のワインを作ること。ワインをプロデュースするという壮大な夢です。でも本間さんなら、きっとそこにたどり着ける気がします。

次回はベネツィアの料理人、リストランテ「le cementine」のスーシェフ・nori koderaさんをご紹介します。お楽しみに。

<インタビュー:世古 健太・方城 友子、記事作成:杉谷 淳子>

<取材協力>

「osteria giorgione da masa」エントランスの写真

店名 osteria goirgione da masa(オステリア・ジョルジオーネ・ダ・マサ)
SNS Instagram
SNS Facebook

<写真提供>

本間 真弘シェフ
※インタビュー風景を除く

▼続いてのリレーインタビュー記事はこちら

日本の飲食業界に疑問を持ち36歳で2度目のイタリアへ。店をたたんで渡った料理人の思考とは【リレーインタビューVol.7】