
イタリア・パドヴァのミシュラン三つ星レストラン「Le Calandre(レ・カランドレ)」でメイン料理を担当する若き料理人、吉川 朴(ほお)さん。
「どうしても料理人になりたい」と大学を中退し、料理の世界に飛びこみます。しかも飛び込んだのは、本場イタリア!さらにミシュラン星付き店。
その行動力と決断力は一体どこから生まれてくるの?
吉川さんが料理人になったきっかけ、今イタリアの地で何を思うのか、何をめざすのか、26歳の“いま”をインタビューしました。
<吉川さんは前回:川崎 大輔さんからのご紹介です>
吉川さんが「ぜひ知ってほしい」という料理人仲間も新たにご紹介します。
<プロフィール>
■吉川 朴(よしかわ ほお)さん
1994年、東京都生まれ。東洋大学中退後、武蔵野調理師専門学校を卒業した2015年、イタリアに渡り、ピエモンテにあるミシュラン一つ星レストラン「La Ciau del Tornavento(ラ・チャウ・デル・トルナヴェント)」にてパスタ場の担当を1年半経て、冷菜場のチーフを1年半担当。その後、2018年にベネチアの一つ星レストラン「Gran Caffè ristorante quadri(グラン カフェ リストランテ クアドリ)」にて2年ほど勤務。2020年11月よりベネチア近郊のパドヴァの三つ星レストラン「Le Calandre(レ・カランドレ)」に移りメイン料理を担当、現在に至る。
吉川さんのInstagram (@ho7700)
目次
涙でまくらを濡らした、大学2年の夏
クックビズ世古:吉川さんが飲食業界に入ったきっかけは?
吉川さん:もともと料理は好きだったんですが、高校時代はサッカーしかしてなくて。本当に「サッカーで食っていこうかな」というくらいにサッカーに没頭していたんですけれども、高校3年生の春に、背骨を悪くして続けられなくなりました。
そこで初めて自分の将来を考える機会ができたんですね。その時に「自分は何が好きなんだろう」と考えたら、料理だったんです。
受験生なのに12月までサッカーをやっていて、センター試験の2週間前に両親に「料理人になりたい」と話したという(笑)。
クックビズ世古:びっくりされたのでは?
吉川さん:びっくりもしていたし、半分キレていました(笑)。「自分の人生を、そんな簡単に決めるな」と言われて、「確かにそうだな」といったん大学に進学したんです。
僕の父は画家で、母は土を扱うアーティストをしていまして、弟たちは芸術、建築の分野、妹も芸術の道に進もうとしているんです。
クックビズ世古:いわゆる芸術一家なんですね。
吉川さん:そうなんです。それで「少しずつ経験をしていってから、決めたらいいんじゃないの」という両親のアドバイスに従って、大学生をしながら、まずはアルバイトから始めることにしました。
はじめに働いたのは、銀座にある「パスタ屋 スケベニンゲン」という店です。
クックビズ世古:有名店ですよね。
吉川さん:最初から、ドカンッと有名店に入ったほうが、料理が好きか嫌いかの判断ができるんじゃないかと思って。その後、池袋にある「AL TEATRO(アル テアトロ)」に入りました。
クックビズ世古:イタリア料理というジャンルを選ばれた理由は?
吉川さん:子供のころに両親が初めてきちんとしたレストランに連れて行ってくれたのが有名な「カステッロ」というイタリアンレストランだったんです。その時に、お店の雰囲気や料理、すべてに魅かれました。
でも忘れもしない、大学2年生の夏です。自宅の冷蔵庫に大学の学費が書かれた用紙が貼ってあったんです。両親が故意でやったのかは分からないですが(笑)、それを見てから「好きじゃないことに学費を払わせて申し訳ない」という思いがすごく強くなってしまって。それならもういっそ、辞めてしまおうと。
クックビズ世古:それがきっかけで大学を辞めたと。
吉川さん:夏休みの最後の日、朝起きたらまくらが涙で濡れていて(笑)。それでもう体が自然に動いて、大学に退学届けを出しにいきました。
クックビズ世古:涙で…。ご両親は納得を?
吉川さん:両親とは3回、話し合いました。2回目までは、僕の気持ちが完全に決まり切っていないのを両親も感じていて、「もうちょっと考えなさい」と。3回目で本気だと理解してもらいました。
大先輩シェフたちとの出会いから、突然イタリアへ
クックビズ世古:その後は?
吉川さん:調理師の専門学校に入りました。専門学校の冬休みに、イタリアに1ヶ月間研修に行きました。で、帰国後に神楽坂「リストランテ カルミネ」が募集を出していたので、自分のためになるかなと応募して、卒業までお世話になりました。
クックビズ世古:冬休みにイタリアに行こうと思った理由は?
吉川さん:「L’asse」の村山シェフとの出会いですね。卒業後、お店で働かせてもらおうと面接に行ったんですが、すでに別の人が採用されていて。他の店をいくつか紹介してもらったんですが、その時に村山シェフからふいに「イタリア行ってみる?」と言われました。すぐに「イタリアに行こう!」と決めたんです。
クックビズ世古:え、そんなすぐに。
吉川さん:イタリア料理をやろうと思った時点で、もうイタリアに行くことは迷いなく決めていたんです。僕の両親は「本物はその場所でないと学べない」という考えがあって、僕もそう信じていました。
でもそのあとに、3ヶ月くらい村山シェフから連絡がなくて(笑)。もしかしたら村山シェフはノリで言ったのかもしれないですが、僕はもう完全に鵜呑みにしていたので、何度か店に電話をかけさせてもらったんですね。営業時間だろうがお構いなしに…。
そのあと、村山シェフから連絡があって「馬渡(まわたり)さんというシェフがイタリアにコンタクトを持っている。今から馬渡シェフに挨拶に行くけど来る?」と言われ、行きます!と。
これが調理師専門学校の最後の授業の日。僕は学生服のまま、馬渡シェフに飛んで会いに行きました。
クックビズ世古:早い!
吉川さん:でも馬渡シェフからは「いきなりイタリアに行くのもなんだから、『La ciau』(馬渡シェフの店)でしばらく働いてからでもいいんじゃない?」と言われたんです。でも僕はあくまで「いやイタリアに行きたいです」と。
1ヶ月くらい経って、馬渡シェフからとりあえず履歴書を持ってきてといわれて、「La ciau」に行きました。でもタイミングが悪くて、馬渡シェフがとてもお忙しいときだったんですね。それで僕は店の外で6時間、待ったんです。
クックビズ世古:6時間…。
吉川さん:やっと馬渡シェフが出てきて「まだ待っていたの?」とびっくりされて(笑)。どうしてもイタリアに行きたい気持ちを伝えると「6時間待っているんだったらイタリア行っても大丈夫かも」と言っていただきました。
クックビズ世古:すごいですね。
ミシュランで働くスタッフたちの雰囲気が好き
吉川さん:専門学校の冬休みに研修で、村山シェフが紹介してくれたイタリアのピエモンテにある一つ星レストラン「La Ciau del Tornavento(ラ・チャウ・デル・トルナヴェント)」に1ヶ月、行くことになりました。
クックビズ世古:その1ヶ月のイタリア研修を足がかりに、卒業後もイタリアに渡られたと。
吉川さん:卒業後は「ラ・チャウ・デル・トルナヴェント」でパスタ場を1年半、冷菜場のチーフを1年半、担当しました。最初の1年半はレストランの2階のロフトみたいなところに住んでいました。
クックビズ世古:日本との違いに戸惑うことはなかったんですか?
吉川さん:日本とイタリアの一番大きな違いは、キッチンでの役割です。イタリアのレストランのキッチンは部門ごとに完全に担当が分かれているんです。パスタならパスタ、冷菜なら冷菜、メインならメインと。
逆に日本は、お店が小さいことが理由のひとつにはあるんでしょうが、みんながオールマイティになんでもやります。でも僕はそもそも日本でそこまで働いていないので、「これがイタリアなんだ」と自然に受け入れていましたね。
クックビズ世古:その後、ベネチアに移られたきっかけは?
吉川さん:僕がイタリアに来るときに、村山シェフからは「ひとつの店に最低3年はいなさい。四季を3回感じて、やっと見えてくるものがあるから」と言われたんですね。
なのでそろそろ3年経つから、また違うお店で働いてみたいなと。ちょうど食べ歩きをしていて、「すごく変わったことをしているな」という店があったんです。
それがパドヴァにある「Le Calandre(レ・カランドレ)」(ミシュラン三つ星)でした。一緒に働く仲間のつてがあることが分かって、「レ・カランドレ」の系列店であるベネチアの「Gran Caffè ristorante quadri(グラン カフェ リストランテ クアドリ)」(一つ星)に2年、入ることができました。今いる「レ・カランドレ」には昨年11月に来たばかりです。
クックビズ世古:どの店も星付きですが、吉川さんとしてはミシュランの星付きにこだわっていたんですか?
吉川さん:いえ、自分の足を使って見つけた「面白いな」と思った店がたまたま星付きだっただけですね。
ただ、星付きの店のスタッフは少なからず、仕事に向かう姿勢や意識が高いとは思います。僕はその雰囲気が好きなので、そこに入って働きたいというのはありましたね。
イタリア食材で出す“日本の味”に衝撃。五感を使って“自分の色”をみがきたい
クックビズ世古:吉川さんがイタリアで影響を受けた料理はありますか?
吉川さん:今の自分に影響を与えた料理は「レ・カランドレ」 の『fu mare(フマーレ)』ですね。
初めて食べに行ったときに前菜として出てきたんですが、鯖や鯛の骨と生姜、醤油、砂糖から取った出汁に、キャビア、マグロのトロのツナ缶のジェラートとボッタルガ(塩漬け)を使ったものです。
「これ完全に日本の出汁じゃん…」という。今まで日本の食材を使って「和」の味わいを出す料理はあったんですが、イタリアの食材を使ってイタリア人が自分のお皿として“美味しい”という認識でお客様に出す…というのが衝撃でした。
イタリアの料理人が、イタリアの食材で和の味を生み出したことに、僕はシンプルに「すごい!」と感じました。『フマーレ』には、作った人の“色”が出ていました。色を出せる料理人になりたいなと思いましたね。
クックビズ世古:吉川さんが今、取り組んでいることは?
吉川さん:“五感を使う”ことです。たとえば、「この料理をどのお皿に合わせればいいか」「この料理なら、どんな音楽を聴きながら食べたほうがいいのか」「箸で食べたほうがいいのか、スプーンで食べたほうがいいのか」。
強制的に与えられたものではなく、自分が楽しみながら出てきた答えを活かしていけるように、今から繰り返しイメージしています。
クックビズ世古:将来として、めざすものはありますか?
吉川さん:2年半前に旅行で福岡に行ったんです。その時、福岡の食材と、彼らの食に対するストイックさに触れて、ここでお店を出したいなあと思いました。ただ東京でもやっぱり勝負したいなというのがあります。
とはいえ、まだその段階ではないとも感じています。32歳か33歳くらいを目途にお店が持てればいいですね。経営についても学んでいければとは思っています。
クックビズ世古:吉川さんが経営を学ぶとしたら、どこで学ぶんですか?
吉川さん:「レ・カランドレ」は来たばかりなので、3~4年はいるつもりです。僕が店を出すのであれば、それは日本なので、日本の営業スタイルや経営視点を学ぶ必要があると思います。なので、日本に帰ってからもまた3年ほどは、どこかで経営を学びたいと考えてはいます。
クックビズ世古:吉川さんは思いついたらすぐ行動するようで、割と先も見据えてますよね。
吉川さん:そうですね。確かに僕は、天真爛漫に生きようと思ってきましたし、直感で動くんですが、走っててもし目の前が崖だったら、とりあえずは走りません(笑)。
僕がサッカーをやっていた時、よく言われたのが「今やれることをやれ」です。後のことはどうとでもなると言ったら大げさですが、今100%でやっていれば、後のことも100%に育っていくと。
だから僕は最終的には料理人としてキッチンで死ねたらいいかなと思います(笑)。たとえば84歳まで生きるとして、最期の瞬間まで包丁を握って、「料理人だったんだな」と言われたいですね。
クックビズ世古:生涯料理人と。
吉川さん:料理は仕事っていうより、僕にとってはもう、好きの塊(かたまり)。僕がお店を持ったとして、僕の作った料理を美味しいという方が3割でもいれば、その人たちのために料理を創っていけたらいい。自分の味が万人に受けるかは分からないけれども、自分の店でしか食べられないものがあるよ、というのを持っていたいですね。
ベネチアで日本人シェフとして活躍する本間さん
クックビズ世古:吉川さんが「この人をぜひ知ってほしい」という方はいますか?
吉川さん:ベネチアにいる時にお世話になった「osteria goirgione da masa」のシェフ、本間 真弘(ほんま まさひろ)さんです。本間さんは『グラン カフェ リストランテ クアドリ』のシェフの友達なんですが、ベネチアで唯一、日本人の料理人として働いている方で、一緒にいろんな所に食べに行ったり、互いのお店に行き来したりと交流をさせていただいています。
本間さんが作るのは和食料理で、彼も自分の“色”を出している料理人だと思います。僕よりもイタリアにいる期間が長いんですが、僕は本間さんにすごく「日本」を感じるんです。実家が岡山で飲み屋をやられていたこともあってか、イタリア人より飲むんです(笑)。
料理とお酒に対する情熱はすごいと思います。
クックビズ世古:本間さんとお話できるのを楽しみにしています!本日はありがとうございました。
まとめ
吉川さんとお話した2021年1月25日は、イタリアはロックダウン中。イタリアでは、コロナの拡大状況の対策が色で決められているそうで、この時吉川さんのいるパドヴァではオレンジ色の「営業できない」状態でした。完全休業のなか、吉川さんはプライベートな時間を使って料理を続けていたそうです。
料理人だけでなく、何かを始めようとする時、生き方を考える時、誰もが1歩を踏み出すことに戸惑うものです。吉川さんの行動力や決断力も決して特別なものではなく、迷ったり立ち止まったりした時間があったからこそ生まれたもの。彼自身は「さまざまな良い出会いに恵まれていた」といいます。ちょっと違う見方をするならば、自分の力で「出会いを良いものにしていった」ともいえるのではないでしょうか。イタリアも日本も大変な状況下ではあるけれども、新しい道を切り開く料理人のエネルギーは健在です。
<インタビュー:世古 健太・方城 友子、記事作成:峯林 晶子>
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