
目次
憧れに導かれるまま、料理人を目指しヨーロッパへ
料理人になろうと思ったのはいつ頃ですか?
平氏:叔父がフレンチレストランを経営していたんです。小さな頃から家族でその店に行く機会が多く、フレンチとは意識せずにエスカルゴとか食べていましたね(笑)。小学校高学年くらいかな、なんとなく料理人っていいなと思うようになったんです。
料理人だった叔父さんの存在が大きいのですね。
平氏:そうなんです、格好良いというか憧れみたいな感じです。中学校の時に、叔父がベルギーで店を開くことになりベルギーに行ってしまいました。僕も中学校を卒業したらベルギーに行きたいと親に話したんですが、さすがに反対されました。
「高校ぐらいは卒業してくれ」と言われたので、仕方なく高校に入学。でも大学進学は考えられず、やはり料理人になりたいと思い続けました。その頃になると親も諦めたのか、高校を卒業したらベルギー行くことを許してもらいました。
渡欧前に料理や語学など準備はしましたか?
平氏:料理は何もしなかったです。語学は16~17歳頃から家庭教師をつけてフランス語を勉強しました。当時、フランス語を習う場所といえば、日仏学院やアテネ・フランセだったんですが、遊び盛りの高校生だったので通うのが難しくて(笑)
週2日、フランス語を勉強してそれなりに自信がついたのに、現地でリアルの会話には全くついて行けなかったです。
星付きレストランの調理場にいるという高揚感
ベルギーのレストランで修業を始めますが、料理人の世界は戸惑いましたか?
平氏:まずは外国で暮らすことのカルチャーショックが大きかったですね。日本に彼女がいたのですが、今のようにSNSはなかったし、国際電話は高かったので手紙でやり取りです。毎週、彼女からエアメールが届くんですが、始めの頃は色々書いてあったのに、だんだん薄くなり(笑)。現地で仲間と遊びに行っても深い話はフランス語で語れないし、異国に住む寂しさを感じましたね。
僕らの時代って3ヶ月くらいで修業先を変えるんです。次の店は自分で探すんですが、インターネットなんてないから、ミシュランガイドに載っているレストランに片っ端から手紙を書きました。紹介されることもあるんですが、いざ店に行ってみたら仕事がないなんてザラです(笑)どうにか働く場所を見つけたら、日本で料理の経験もないし必死に何でもやりました。
誰もが上を目指し切磋琢磨する環境で、頭ひとつ抜けるためにした努力は?
平氏:料理人の厳しさは今も変わらないと思いますが、弱肉強食というか競争社会なんです。日本以上に海外はシェフの采配が強いので、どれだけシェフにアピールできるかで店の中の役職が決まってくる。日本人は魚の扱いに慣れているから、ポワソンを担当させられるんですが、それだけやっていてもだめ。
ヨーロッパの料理人は一切やらない皿洗いとかしました。朝、店に大量のじゃがいもが届くので、ひたらすら皮をむく。その辺は腹をくくっていたので、調理場に寝泊まりするくらいひたすら働きました。毎日毎日なんでも率先してやっていたら「お前は使える」と目にとめてもらえるようになったんです。
長時間労働に疑問を持ったり、嫌になったことはないのですか。
平氏:嫌になったことはなかったですね。小さな頃から憧れていた世界に自分がいるということが素直に嬉しかったです。今はインターネットで現地の様子を見ることもできますが、その頃はフレンチレストランの調理場にいるというだけで、とてつもなく感動しました。食材一つとっても、日本とは全く違うし新鮮でした!
朝一番に調理場に入り、他のコックが来ないうちにチーズを分厚く切って残りのパンに挟んで食べたり。トリュフの時期になると、見なこともないような立派な白トリュフが店に入ってくるんです。夜も一番遅くまで仕事をしているので、こっそり家に持ち帰りずっと眺めてトリュフと一緒に寝て朝イチで戻すとか(笑)。三つ星レストランの世界観ってとんでもなくゴージャスで桁違いなんです。自分がその空気を吸っているだけで、満足でした。