偶然出会った中国料理の世界。腕を磨くために走り続けた下積み時代

まずは、料理の世界に興味を持ったきっかけを教えていただけますか?

澤田氏:元々料理に興味があったというわけではありません。男4人兄弟で、学生時代はずっと野球をやっていて、高校は工業高校に行っていたんです。
高校での進路選択があって一般企業に内定を頂いて、そこで就職することになっていました。
ただ、工業高校に行ってたものの、工業にさほど興味を持つことができなかったこともあって、どうしてもその会社で働こうという気になれず…、直前で就職を取りやめたんです。

それからは、とりあえずお金は貯めようと、フリーターで昼夜とバイトをしていました。
自分がなにをしたいのかということがわからず…、当時は服が好きだったこともあって、美容やファッションなどは興味ありましたから、軽い気持ちで当時流行っていた美容師にでもなろうかなんて考えたりもしましたね。

昼間は中華料理屋でバイトをしていたのですが、まかないを先輩と交互で作ったりしていたのですが、自分が作ったまかないが一番美味しいかった(笑)
だんだんそれが楽しくなってきて、料理人も悪くないんじゃないか?と考え始めたのがこの道に進むきっかけでした。
それからもっと中華を勉強したいという気持ちになって、貯めたお金で調理師学校に通いました。

もしかするといまでもそうかもしれませんが、中国料理をやりたいからと調理師学校にくる学生はまったくいなかったですね。
僕は、中華屋さんのバイトがきっかけだったので、中国料理に進みましたけどが、入り口がまた違っていたら目指していなかったかもしれません。

工業高校の時はあまり興味を持てずとお話されていましたが、調理学校ではいかがでしたか

澤田氏:料理は楽しかったですね。作って美味しいものが出来ることが楽しいと思えました。ただ、製菓は楽しくなかった。自分は製菓は合っていなかったです(笑)

そういう意味で同じ調理の仕事でも、中華は自分の性分的にもあっていたように思います。
製菓は配合なども細かいですし、長時間混ぜてるだけとかが苦痛でね(笑)。
中華はバンバンっとダイナミックにできて勢いよくできますから、もちろん地道な仕込みもありますが、自分としては料理していて楽しいですね。

ここから下積み時代が始まったわけですね

澤田氏:専門学校は1年なんで、すぐに就職活動もはじまるんです。新阪急ホテルが三田に新たにできるということで、オープニングスタッフとして応募して採用されました。
オープニングメンバーということもあり、無我夢中ですが色んな経験をさせてもらうことができました。
調理場は、同期が4人、キャリアのある方が3人の7人だったのですが、ホテルは年中無休ということもあって、比較的早く中華では花形の鍋のポジションも担当させて貰うことができたのはラッキーだったと思います。

昨日できなかったことが今日できるようになる、そんな単純なことが嬉しく楽しくもありました。しかしだんだん自分の中で「これが本当の中国料理というものなのだろうか?」という疑問を持つようになりました。

ホテルに就職して2年半ほどが経った頃、本場の中国料理はどういうものなのか、一歩でも本場の中国料理というものに近づきたいと思い、本場を知っている香港人のオーナーが経営する街場のレストランで働くことを決めました。

香港人オーナーの店ではどのような学びがありましたか?

澤田氏:今度は店主と、先輩、僕の3人。点心を任され自分なりに工夫したりしたのを覚えています。
このお店では3年働いたのですが、一番勉強になったというか、自分の人生としての機転になったのが、オーナー夫婦は香港の方なので、年に2度ほど香港に帰省されるのですが、その時にスタッフの僕も連れて行ってもらうことができ、本場の中国料理を食べたんです。日本の中華料理と使う食材からメニューにいたるまで、あまりの違いに「自分が今まで作っていたものは一体何だったのか…」と強い衝撃を受けたんです。

オーナーも香港人ではあるんですが、日本でやっていることで、日本の中華料理になってしまっていたんだなと思いました。それが悪いとかではないですよ、しかし、それぐらい全然違ったんです。僕がこれまで知っている中国料理とはまったく違う料理だったんです。

そしてその時に、フレンチならフランスに修業に行く、イタリア料理ならイタリアへ行くということがされているのに、中華はそうじゃないなということに疑問を持ちました。
和食、フレンチに劣るわけではないですけど、負けているところってそういうところなんじゃないかって。
しっかり本場の中国料理を理解した上で、自分の中国料理を作っていきたいと、香港で修業したいと思うようになりました。そう思ってから語学学校にも通いましたよ。2年通いましたね。

オーナーにも香港で修業したいと相談し、紹介して貰えることになりましたが、働かせて貰える店が見つかるまでに1年かかりました。
それぐらい日本人が中華料理人として働くというのが物珍しかったのだと思います。

そして、香港での修業が始まったわけですね

澤田氏:オーナーからの紹介で「福臨門酒家」で働くことが決まり香港へ渡ったのですが、当時、日本人が中国料理人として香港で働こうと思ってもビザが下りなかったんです。和食だったら下りていたと思うんですが、中華は下りなかったんです。
だから、観光ビザを取得して3カ月に1度出国しながら無我夢中で働きました。

日本でホテル、街場の中華とそれなりに働いてきたのですが、すべてではありませんが、香港では全然通用しなかったですね。必要とされる技術がまったく違いました。
当時僕は26でしたが、自分よりも遥かに若い料理人もバリバリやっていましたし、とにかく魚を捌くスピードからなにから早い。

中国料理はまだ本場中国で学ぶというのがまだまだ一般的ではないこともあって、僕のような日本人をまったくみかけませんでした。ですから、僕みたいなのは向こうも珍しいということもあって、同僚たちからは「金持ち日本人の道楽だろう」くらいにしか思われていませんでしたね。

実際は働くと言っても、無給でしたから、こちらは貯金を崩しながらでしたから、必死でしたよ。金払って修業しに来てるわけですから。
やるからには何としてでも、という気持ちですよね。この香港の料理を少しでも日本に持っていきたい、その時は常にそう思って働いてました。

でもそんな甲斐あって、生簀から魚をすくってその場で締めたり、肉を骨ごとさばいたり。調理方法から使う素材。あとは考え方ですよね。この料理はこういうものだという本場の中国料理の捉え方。なんちゃって中華ではない捉え方を「福臨門酒家」で学ぶことができました。

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