店内でのシェフ

いろいろなアルバイト経験から、自分の適合を見出し、料理の道に進む

幼い頃から料理に興味があったのですか?

小美濃氏:実家は農家を営んでいたんですが、人が大勢集まることの多い家だったんですね。そんなときは、普段食べられないようなごちそうをたくさん用意しますから、宴会が終わったあと、残ったものをつまんだりしていて、食べることは好きでした。とくに麺類が好きで「この子は将来お蕎麦屋さんになるね」なんて言われたくらいです。みんな忙しく働いていましたから、学校から帰ったら兄といっしょに台所に立って、好きな食べ物を作ったりするような幼少時代でした。

そのあと、どのような流れで料理の道へ進むことになったのですか?

小美濃氏:父はあるとき農業をやめて、銭湯を始めたんです。そこは兄が継いだので、私はほかの場所で2号店を作ろうと、高校卒業後に親戚宅を頼って家を出て、2年弱ほど銭湯で働きました。しかし、もう銭湯だけで食べていけるような時代ではなくなってきていたので、別のことをしなくてはという思いがあり、20歳くらいの頃ですかね、将来を考えて1年間いろいろなアルバイトを経験したんです。
とんかつ屋、ラーメン屋、うなぎ屋、洋食屋と。そこでの経験から、料理は自分に合うかもしれないと思いました。そして、ちょうど大阪万博の年、1970年に新宿調理士学校の西洋料理科に1年間通うことにしたんです。学校と並行して、渋谷の「サモワール」(現在は池尻大橋に移転。)というロシア料理レストランでバイトしました。

あともうひとつ、この道で生きていこうと思った決定的なことがあって。それは、『調理師読本』という本の1ページ目にあった「料理人は国民の健康を守るために働くべきだ」というような記述に感動したことです。料理人というのはすばらしい職業だな、と思いましたね。

専門学校を卒業後は何を?

小美濃氏:卒業後の就職先としていろいろな店をあたり、大阪にあった「BOON(ブーン)」という高級西洋レストランで働くことになりました。大阪を選んだのは、どこかで「これからは牛肉の時代が来るのではないか」というのを耳にして、それを専門学校の先生に話したところ「それならば、関東よりも関西だろう」と言われたからです。当時の東京の肉屋といったら、ショーウインドーに並んでいるのは豚肉がほとんどで、鶏肉が少しあり、牛肉は隅のほうにわずかにある程度、という状態でしたから。

ちょうど大阪万博が終わった年で、コックさんが余っているので大阪はなかなか働く場所がない、という状況でしたが、1件だけ紹介してもらえました。

東京から大阪への移住に不安はなかったのですか?

小美濃氏:実は踏ん切りがつかず、行くべきかと迷っていました。そんなとき、ニーナさんというロシア人の女性が言ってくれた一言に影響を受けました。彼女は、私の専門学校のあった新宿にかつてあった「二幸」という食料品店の地下でピロシキを売っていた人なんですが、そのニーナさんに電車の中でたまたま会ったんです。
彼女のことはお店で見かけるだけで、一方的に知っているだけだったのにも関わらず、無意識に「すみません」と話しかけてしまいまして。「実は大阪に行くかどうかで、悩んでいるんです」と相談したんですよ。そうしたら、「中国の方はね、自分の子を人に預けて勉強させ、その子どもは戻ってきて家を繁栄させるそうですよ。そういうこともあるのだから、あなたも行ってらっしゃい」と言ってくれました。これが後押しとなり、大阪へ行くことを決心したんです。これは人生の岐路となった出来事だったなと、今振り返ると思います。

インタビューを受ける小美濃シェフ

経験できるものは何でも体験し、多くのことを吸収した修業時代

1店舗目の大阪のレストランでは、どんなことを経験したのでしょう?

小美濃氏:お店で提供する料理はもちろん、企業さん向けレセプションパーティーの依頼が多い店だったんですよ。僅かな期間の勤務でしたが、ここでの経験は、すごく勉強になりました。

まず、誰より早く出勤し、先輩のためにオムレツとガーリックトーストを焼いて、ミルクティーを入れることが私の役割でした。ここでは、調理の火加減やフライパンの使い方を覚えましたね。

当時私は他の新人に比べて手が遅く、仕事はなかなか覚えられなかったので、料理長の計らいで、毎日まかないを作らせてもらうことになりました。この店はまかないを作るのに、肉の日と魚の日があったんです。非常にいい店だったので、瀬戸内海の太刀魚とか鱧とか舌平目とか高級な魚もバンバンまかないに使っていたんです。だから、様々な食材に直接触れることができました。魚のおろし方はここで覚えましたね。

あと、勉強になったのがパーティーのための出張料理です。たとえば、お皿の形による盛り方の違いや、どう盛ればおいしそうに見えるのか、についてはここで学び、それは今の私のカレーやシチューにも活きています。

当時の楽しみですが、給与総額が4万円、家は畳1畳千円の三畳一間・ガスコンロ一つの生活でしたので、月1回もしくは数ヶ月に1回だけ、勉強がてら外食をしに行くことがありました。よく行ったのは京都の「ぎをん萬養軒 四条河原町店」(現在は祇園店のみ)。グランドピアノの洋楽を聞きながら食事をし、メニューをもらってくることが本当に楽しみでしたね。

また関西は魚料理も多く、料理長から「魚を扱うなら生体から覚えろ」をいうアドバイスを貰ったこともあり、自分で魚を釣って、さばくことも覚えました。淡路島にキスとカレイを釣りに行って家で焼いたり煮付けにしたり、京都の保津川でハヤなどの川魚を釣って飴で煮たりしました。

どうしてもお金がなくなると、勤め先のおばちゃんに「ここでお昼ご飯食べてきなさいよ」とごちそうしてくれたりもしました。みんな大阪の人は優しかったですね。東京から大阪に行くと、大阪の人はすごく怖いと思われがちですが、なぜだか僕は東京の人間に見られず、北海道から来たの?なんて聞かれて(笑)。ですから大阪のみなさんには親切にしてもらって、同僚の家にもよく泊めてもらいました。そこで大阪の家庭料理にも触れましたね。すごく楽しい思い出です。

そのあと、店を移ったそうですが、そのわけは?

小美濃氏:「BOON(ブーン)」での仕事は、内容も環境もよく、快適だったんです。でも、私の目標は自分の店を出すことだったので、1年半くらい経った頃、もう少し忙しい店も経験してみたい、と思ったのがきっかけです。先輩には「ここにいればいいのに」と言われ、私もそう思ったんですけれどね。ものすごく忙しいところに行ってみたい、厳しい体験もしないとダメだ、と考えたんです。それに、私は20歳過ぎてからの修業ですから、遅めのスタートだったんですね。みんな高校卒業してすぐに調理の現場に入っていくわけで、そういった若い先輩に比べて私は料理人としてやっていく体が作れていない、という思いもありました。

2店舗目のレストランでは、どんなことをしたのでしょう?

小美濃氏:紹介してもらったのは、三ノ宮にあった系列店の「バーグ」という、ハンバーグやフライやピカタなど洋食料理をメインとするレストランで、昼は300食以上出るような忙しい店でした。入店して間もない頃、肉担当の責任者、当時はブッチャーと呼んでいましたが、彼が転職することになり、「ブーン」で働いていたというだけで私はいきなりその肉担当につくことになってしまったんです。

やっていることを見ていたので、何をすればいいかはわかっていてなんとか手を動かすことはできましたが、決して手が早いほうではなかったし、とにかく仕事が多くて。作業が追いつかず、開店時間に間に合わないことにもありました。早くしろ!ときつい関西弁とともに出刃包丁が飛んできたなんていうのも、大げさな話ではありません。

がんばりたい気持ちは強く持っていて一生懸命こなそうとはしたのですが、半年ぐらい経ったある時、過労がたたり倒れてしまったんです。夜に店のソファで動けなくなりました。朝にみんなが出勤してきて、これは大変だと病院に連れて行かれてました。これがきっかけで「ちょっと東京で休んでこい」と言われ、休暇をもらい、東京に戻りました。

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