
金澤 拓也(かなざわ たくや)氏/株式会社カームデザイン 代表取締役社長
1974年、大阪市生まれ。大阪市立工芸高等学校で空間デザインを学ぶ。卒業後、大阪有数の老舗「三座建築事務所」勤務ほか。2001年に27歳で独立し、株式会社カームデザインを設立。繁盛する飲食店を生み出すデザイナーとして一躍注目を集める。2010年から外食事業に参入。「センバキッチン」「good spoon」など人気ブランドを手がける。講演多数。
株式会社カームデザインの強みは、二刀流ならぬ三刀流。店舗のデザイン事業を柱に、店舗プロデュースや、飲食事業を行っています。東証一部上場企業の「株式会社ダイヤモンドダイニング」においては、その成長期に出店ラッシュを裏方で支え続け、一時は出店数の60~70%の店舗デザインを手がけていたことも。
2010年からは、これまでの経験をふまえ自社で飲食店の運営に乗り出し、続々出店する店舗はたちまちメディアでも取りあげられる人気店に。そんな金澤さんにこれまでを振り返りながら、思い描く未来の飲食業界について語っていただきました。
ご自身のクロニクル(年代記)も最後にあります。
子どものころの夢は大工。絵ばかり描いていた幼少期
──大阪市内で育ったそうですが、実家はパン屋を営んでいたとか?
そうですね。でも私はパン屋になろうと思ったことはなく…。
──では幼いころの夢は?
大工ですね。幼稚園の頃から思ってました。なにせ家がボロボロだったもんですから、自分できれいな家を建てようと(笑)。
──設計デザインの仕事に携わっている今は、幼いころの夢を叶えたってことですね。
そうですね。小さいころから、とにかく絵を描くのが好きだった。幼稚園のお迎えの時間がきても、絵を描き続けたくてこっそり隠れたり。一人で絵ばかり描いてるような変わった子でした。
──そうなんですか。
例えば遠足で芋ほりに行くじゃないですか。みんなワイワイと芋ほりしているのに、僕は山のてっぺんに登って、一人で風景画を描いたり。人と関わるのが苦手でね。一言でいうとネクラな子ですね(笑)。小学校から高校までバスケットボールをしていたのですが、そこで徐々に“明るさを身につけた”といった感じです。
バスケにバイト、そしてデザインの勉強に明け暮れた学生時代
──絵を描き続けて、高校はデザイン系の学校に進学したそうですね。
はい、大阪市立工芸高校です。そこで空間デザインを学びました。
──大阪市立工芸高校は、大正時代のレトロ建築の校舎で、独特の趣が、さすがデザイン系の学校ということで知られています。
そうですね。でも実は高校時代はデザインの勉強もそこそこに、バスケットボールとアルバイトに明け暮れていました。部活ではキャプテン、エースをしてました。いや、でも根っこは暗いんですけどね(苦笑)。
──高校卒業後は?
戦前からある老舗・三座(さんざ)建築事務所に入社しました。公共建築を主にしていて、僕は小学校の建設などに携わっていました。その後、デザインでもっとおもしろいことをしてみたいという欲が出てきて、自由度を求めるようになりました。
──公共建築だとデザインで挑戦はなかなかできませんよね。
そうですね。僕は外食が好きで、いろんなお店を食べ歩いてましたから、自分が飲み食いする場所を、自分で作れたらおもしろいやろうなぁと。調べてみたら専門的に飲食店ばかり設計しているところも多数あると知り、転職を決意しました。
──22歳で転職。いかがでしたか?
希望どおり飲食店舗を専門に手がけるデザイン事務所に転職したんですが、毎日目の回るような忙しさで。徹夜は当たり前ですね。まぁ、そのころのデザイン事務所はどこも似たような環境です。
それでもやりたいか、やりたくないか…ですよね。
27歳で独立。お金はないけど、モチベーションは高かった
──27歳で独立はなぜ?
いや、単純に小さいころから自分で何かをすると考えてたんです。最初は施工会社の下請けとしてスタート。数をこなさないと、まとまった収入にはなりません。下請けせずに食べていけるようになったのは、2年過ぎたころからでしょうか。当時は、本当にお金がなくてね。借金も重ねましたよ。
──やはり一番の苦労は資金繰りですか。
そうですね。実は僕、稼いだら稼いだ分、全部使っていたんですよ。今月の返済分だけ返して、あとはもう全て使っていた。月80万、100万円稼いでも、ぜ~んぶ使ってた。使うと決めてたんです。
──早く返済しようとかは?
いや、まったく。次の月に収入がなかったら、また借りて…という(苦笑)。
──豪胆なお人柄でうらやましいです。
とにかくいろんな人に出会うため、人脈を広げるために使うと決めてたんです。まぁ、今思えば、何かしらの感覚のネジがゆるんでたのかもしれませんが(笑)。
──駆け出しのころ、当時司会業などで有名だった芸人さんのお店のデザインも手がけたそうですね。
ミナミにある高級寿司店のことですね。ちょうど私が手がけた店舗と同じビルに出店する予定があり、「コンペに出てみて」とお声をかけてもらったんです。
ダイヤモンドダイニングさんとのお付き合いも古いですね。7~8店舗目を出店する頃からのお付き合いです。
──ダイヤモンドダイニングさんといえば、今や東証一部上場企業で、飲食業界のリーディングカンパニー。何軒ぐらい手がけたんでしょう。
100業態100店舗をめざすとおっしゃてた頃は、たぶん出店数の6~7割はデザインさせていただいてたと思います。その頃はスタッフも増やしてましたが、次から次へと依頼が来て。本当に大変でしたが、もうやりきるしかなかったんですよ。
──やっぱり人との出会いは大きいです。借金は未来の投資だったんですね。関西で注目を集め続ける株式会社HASSINさんとのお付き合いも深いとか。
そうですね。HASSINさんは、1号店を出すときに当社のHPをみて依頼がきました。
先輩のベテランデザイナーに依頼するより頼みやすかったんじゃないかな。若いうちに独立したのも、その方がオファーが来やすいと思ったというのもあります。
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