大阪市の真ん中にありながら、自然にあふれたうつぼ公園のすぐ南。「フォアグラと蛤と筍と木の芽」といった意外な素材の組み合わせや完璧な火入れ、そして繊細で美しい盛り付けで話題のフランス料理店「ディファランス」。
オーナーシェフの藤本さんは、ホテル日航大阪のレストランに11年間勤め、在籍中に数々のフランス料理コンクールで入賞。また、2012年には29歳の若さで同ホテルのフレンチレストラン「レ・セレブリテ」のスーシェフに抜擢。そして2013年に独立して「ディフアランス」をオープンすると、2年目の2014年にはミシュランの一つ星を獲得と、誰もがうらやむ料理人人生を歩んでおられる新進気鋭のシェフ。
そんな藤本さんから、どんな風に料理人として成長してこられたか、また3年目を迎えた店づくりやスタッフとの関係をお話しいただいた。

 

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勉強が嫌だった学生時代。できることを探したら料理だった

小さいころから料理の道を目指しておられたのでしょうか?

藤本氏:
いえいえ。実は、子どもの頃は何となく教師になりたいと思っていました。

もともと、両親が共働きで、母親が「男の子も家事ができんとあかん!」と言って、イヤイヤながらも家事をさせられてました。ただ、食事づくりは嫌いではなかった。高校時代は友達を家によんでご飯をふるまったり、スパイスからカレーを作ったりしていましたからね。

高校に入ったら勉強がイヤになって。寿司屋のバイトばっかりしていました。勉強もしなかったし、大学へ行くのに学費を出してもらうのも申し訳なくって。それじゃあ自分は何ができるかな?と考える日々。

そんな中、寿司屋のバイトでは他の子たちがさせてもらえない巻きずしを巻く仕事をさせてもらったりしていたのでちょっと調子に乗って(笑)。それで初めは調理師の専門学校に行こうと思った。でも、調べると、大学に行くより学費が高いことがわかったんですよ。これは難しいな、と思って進学はあきらめた。それで、ホテルマンだった父に相談して、ホテル日航大阪に入れてもらったんです。言ってみれば、コネ入社です。

 

それでは、やる気満々でホテルに就職されたわけではなかった?

藤本氏:
正直申し上げると、実はそうなんです。入社して4,5年は鉄板焼レストランにいました。でも、目標とか何もなくって、同期は調理師学校を出ている年上ばっかりでしたし、とにかく最初の半年は怒られないようにするので精一杯。調理なのに、僕は自分の包丁も持っていなかったですからね(苦笑)。当時は、「とにかく両親には迷惑をかけてないようにしよう」という気持ちで、毎日仕事をしていました。

 

先輩に話を合わせたことが、フレンチの世界へ入るきっかけに

経歴からは、最初から前のめりに料理に取り組んでおられたかと思っていたので、意外でした。それでは、いつからフレンチの方へ?

藤本氏:
高校時代もバイト同士より社員の方と仲良くしているタイプだったんですが、ホテルに入ってからも上司に誘われたら喜んでついていって、かわいがってもらっていたんですね。目上の方と仲良くするのは嫌ではないんです。ホテルの野球部に入っていたりして、そこでフレンチのスーシェフだった先輩と仲良くなりました。

ある日、その先輩に「お前、フレンチがしたいんちゃうの?」って言われて。本当はそうでもなかったんですけど、その先輩のことは好きだったんで思わず「やりたいです!」って答えてしまいました(笑)。今にして思うと、大きな分岐点です。

 

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