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昭和3年に京都で創業した「たん熊 北店」は、関西を中心に18店舗を展開する京料理の老舗。

今回は3代目となる栗栖正博氏にお話をうかがいました。和食が世界無形文化遺産に登録されたきっかけを作った「日本料理アカデミー(和食が無形文化遺産へ!参照)副理事長も務められている栗栖氏に、これからの日本料理の可能性についてクックビズ藪ノが迫ります。

ビジネス、海外交流…。先代の背中をみてきて、たどり着いた「今」とは。

藪ノ:今日はよろしくお願いします。栗栖さん、今日はスーツをお召しですが、今も、現場に出られることもあるそうですね。

栗栖氏:はい。現場に出るときは、白衣に着替えてます。今日はいろいろと外回りをしていてこういう格好ですが、通常は白衣を着て厨房に立っております。個々の店は店長に任せておりますが、本店のほうは私が接客もしますし、料理を作ることもしています。

たんくま本店

藪ノ:「たん熊 北店」様のホームページなどを拝見したのですが、おじい様がはじめに開業されたんですね。3代目である栗栖さんは、幼少のころからお店を手伝われていたんですか?

栗栖氏:厨房の手伝いを始めたのは14歳くらいからです。調理師免許は大学の在学中にとりました。ふぐ調理師免許も学生の時にとりました。その間に調理師学校で習うことは、自分なりに全部学ぼうと思っていました。

藪ノ:大学へ行かれていたのですね。

栗栖氏:僕は立命館中学、高校に行っていたのもありますが、そのまま大学に進むというよりも、大学には必ず行くべきだというのが父親の考え方です。父は旧制中学しか出ていませんが、もっと上の勉強をして事業家になりたいというのが、父自身の夢だったようです。
ですが、戦争がはじまったので、それどころではない青春時代で。ほとんど授業も受けていない状態でしょうね。料理人になってから、いろんな本を読んで、独学で勉強していたようです。

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藪ノ:なるほど。

栗栖氏:ただ、僕は本当は逆の考えの持ち主で。先に技術を身につけたかったタイプです。「料理人がなんで勉強せなあかんの?」みたいな(笑)。若い時は「早く包丁さばきとか教えてよ!」「ぼくら勉強しても仕方ないんちゃうの?」みたいな焦りもありましたね。だから大学に行きながら、終わったらお店に来て仕事をする、という繰り返しでした。

藪ノ:進学する前から「たん熊 北店」を継ぐお気持ちだったんですか?

栗栖氏:中学くらいで心を決めていました。親に言われたことも、親戚に言われたこともなく、自分で決めた。あとを継がないと、という使命感を持っていたのもありますが、うちの場合は、私が小学校の時にすでに2代目が多店化を図っていましたから、子供ながらに「父親がやっているのは料理屋という、ひとつのビジネス」という認識がありました。

要するに、1軒ならば親父に任せとけばいいや、となるんですが、どんどん店舗数が増えていくようすを横で見ていると、チャレンジしがいのある、とても魅力のある仕事に見えたんですね。海外の料理人との交流も、現在では一般的になってきましたけれども、父親はもっと古い時代からチャレンジしていた。そんな父親の仕事を見て、自然と興味が抱いたのです。

藪ノ:2代目は、その頃すでに海外交流もされていたんですね。

栗栖氏:当時、父は自分で勉強して、身ぶり手ぶりのカタコト英語でビジネスをやっていました。ただ、私が以前、JC(青年会議所)で海外に行った時に、観光通訳の場合、我々が1分くらい喋っているのに、通訳が一言二言で終わってしまうということがありました。
相手は気軽にOKと返事するのですが、本当に伝わっているのか不安でしてね。それでだんだん本格的な通訳を雇うようになりました。食材環境も違う、食べる人が求めることも違う、文化の違いは、料理を理解する上でとても大きいと思いました。

日本料理アカデミーで「フェローシップ事業」というものをすすめているんですが、そこでも専門通訳をお願いしています。海外の意欲的な料理人に日本に来ていただいて、京料理を紹介し国に持ち帰ってもらう事業なんですね。それはやはり専門通訳で明確に伝えないと意思の疎通ができない。

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